犬養毅、「話せばわかる」時代だったか<等々力短信 第1110号 2018.8.25.> ― 2018/08/25 07:09
保阪正康さんの『昭和の怪物 七つの謎』という凄い題の講談社現代新書を買 ったのは、広告の七人の内に「犬養毅」の名を見たからだ。 保阪正康さんの 書くものに信頼を寄せてもいた。 私は5月、福澤諭吉協会の史蹟見学会で秋 田へ行き、秋田魁(さきがけ)新報8月2日の文化欄に、その旅行で尋ねた犬 養毅、澤木四方吉、井坂直幹の事績について寄稿した。 福沢門下の犬養毅(木 堂)は、明治14年の政変で大隈重信傘下の統計院から下野した後、明治16 (1883)年、秋田魁新報社の前身「秋田日報」の主筆として着任、7か月ほど 健筆を振るった。 29歳の犬養は元家老の屋敷で論説を書いて、滅多に出社せ ず、土地の名妓お鉄を愛して側を離さなかったという。
『七つの謎』第四章は「犬養毅は襲撃の影を見抜いていたのか」。 昭和7 (1932)年の五・一五事件から60年目に当たる日に憲政記念館で開かれた犬 養家の追悼会で、保阪正康さんは事件についての講演をした。 「憲政の神様」 犬養は、議会政治家としてその使命を全うした模範的な人物だが、テロの犠牲 になった悲劇の政治家だと述べ、しばしば大局観に欠ける点があったことに触 れなかった。 それを聴いて次に壇上に上がった孫の犬養道子さんが、保阪さ んに向け、祖父に同情して頂く気持はわかるが、歴史上の政治家としての評価 は別だ、感情と評価はきちんと分けて、臆することなく語って欲しかった、と 諭すように話す。 その言葉は、保阪さんにぐさりと刺さった。
昭和6(1931)年9月の満州事変から3か月、軍部がゴリ押しして政治に介 入してくる事態をとにかく犬養で乗り切ってほしいと天皇は考え、12月政友会 総裁76歳の犬養毅に大任を託した。 父・健(たける)が犬養毅総理大臣の 秘書官だったので、11歳の道子さんは、一家で首相官邸に住んでいた。 五・ 一五事件を目撃した母から聞いた話。 夕刻官邸正面から襲われ、護衛の巡査 がピストルで撃たれる音がした。 政務室にお茶でもと首相を呼びに行ってい た母は、庭に下りて逃げるように勧めた。 「いいや、逃げぬ」と答え、海軍 少尉の軍装の士官二人、士官候補生三人が土足のまま、入って来るのを直視し た。 一人がピストルの引き金を引いたが、弾丸が出ない。 「まあ急(せ) くな」「撃つのはいつでも撃てる。あっちへ行って話を聞こう……ついて来い」 母と弟(後の康彦共同通信社長)から意図的に離れ、士官たちを日本間へ連れ て行こうとし、「まあ、靴でも脱げや、話を聞こう…」と言った。 だが、別の 四人が現れ、「問答無用」とピストルを乱射した。 有名な「話せばわかる」で はなかったのだ。
道子さんの著書に、「お祖父ちゃまと言う人はこんな一語を麗々しくのこすに してはもう少々、わけ知りの人であった筈だと、私はいつも思っていた」とあ る。
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