桂米團治の「たちぎれ線香」下2018/09/01 07:17

 若旦那、この前来てくれはった時、小糸と芝居に行く約束をなさいましたね。  小糸、昼間からそわそわして、今日は寝えへん、結い上げた髪が枕で乱れたら 笑われるって。 はよ寝なはれ。 ちょっと寝たかと思うと暗い内から起き出 して。 その内に、お昼前、もう芝居が始まっている、と。 どんな御用がで きたのか、わからへん。 お母ァちゃん、若旦那、来はらへんわ。 日が西に 傾いて、ものの陰が長くなって。 嫌われていたんやな、そう言ってあの娘、 帯解いて、着物脱いで、泣き寝入りに寝てしまいました。

 明くる朝、起きてこない。 朝、昼と食べず、お母ァちゃん、手紙を書いた ら、どうやろか、船場へ。 夕方軽く一膳食べたきり。 それからは手紙ばっ かり、お座敷も出えへん。 朋輩の妓たちも、そら若旦那さんが悪いと、机並 べて、寺子屋みたいに、手紙を書いていました。 でも、何の便りもない。 痩 せて、骨と皮ばかりになって、手紙だけは書いてました。 あとはボーーッと しているか、泣き寝入り。

 若松屋から、若旦那が注文してくれはった三味線、若旦那と小糸の名が比翼 になった三味線が、届きました。 若旦那はあんたのことを忘れてはるのと違 う、いつも言うように、何かわけがあって来られんのや。 ほんにお母ァちゃ ん、私(あて)が悪い、そうやな、あてこれを弾きたい。 本調子に合わせて、 持たすと、胴をさわり、撥を持って、シャンと一撥。 あとはジーとしてるさ かい、早く弾きと、覗き込んだら、この世のものではありませんでした。 可 哀そうなことをいたしました。 勘忍しておくれ、アーーア、知らなんだ、知 らなんだ、そんなことなら蔵破ってでも出てくるんやった。 蔵? お母さん、 わい百日の間、蔵の中に閉じ込められてたんや。 さよか、百日の間……、そ んなことかと思うてました。 ちょうど今日はあの娘の三七日(みなのか)、小 糸の朋輩衆も来てくれます、どうぞ、お線香の一本も。 お仲、三味線をお仏 壇にお供えして。

 お母ァちゃん、遅くなりました。 お母ァちゃん、遅くなりました。 小糸 ちゃんの三七日のお詣りなのに…。 この人に言われて、番台の上の神棚にず らっと並んでいる提灯を見ると、一番前が小糸ちゃんで、来年からはあの提灯 が一つ減るのやなあ、と思って、ワーーッと泣き出してしもうて。 またお化 粧、作り直して来ました。 おおきに、おおきに、若旦那もお見えやし。 若 旦那て、小糸ちゃんの仇! そやない、そやなかったんや、大きな声出しなは んな。 おいでやす、お兄いさん。 おいでやす、お兄いさん。 わてを、う らんどるやろな。

 若旦那、何もおまへんけど、一口だけ、あがっとくれやす。 お酒なんか、 飲めるかいな。 いいえ、家に来ていただいてお口も濡らさんと帰ってもろう たら、小糸ちゃんに叱られます。 そうか、それやったら一つ頂きましょう。  小糸、よばれるよ。 (一口飲んで)ブフッ、ブフッ(と、咳込む)。

 (下座の三味線が鳴りだす)キャーーッ、お母ァちゃん、お仏壇の三味線が、 鳴ってる。 (下座、弾き歌う♪花も雪も払へば清き袂かな ほんに昔のむか しのことよ わが待つ人も我を待ちけん……) 小糸、苦労してたんやな、知 らなんだ、知らなんだ、勘忍だよ、私はもう生涯、女房と名のつく者は持たん よ。 おおきに、よう言うてやっておくれやした、千部万部のお経よりも、そ の一言が、あの娘にとって、なんぼよい手向けになったかわかりまへん。 小 糸、若旦那のお言葉を信じて、どうぞ成仏してや。 (下座、♪鴛鴦(おし) の雄鳥(おとり)に物思い 羽の凍る衾に鳴く音もさぞな……あたりで、突然 フッと止む) 小糸、何で急に止めたんや、私の好きな地唄の「雪」やんのに。  若旦那、お仏壇の線香が、ちょうど、たちきりました。

いわさきちひろ、新しい試みの陰に2018/09/02 08:10

 8月12日放送の日曜美術館、いわさきちひろ、「“夢のようなあまさ”をこえ て」を見て、ぜひ行きたいという家内のお供で、東京ステーションギャラリー の「生誕100年 いわさきちひろ、絵描きです。」展を見た(9日まで)。 放 送では、誰もが思い浮べることのできる可愛らしい絵、みんなに愛され、心の なかにしまっている、あの愛にあふれた、いわさきちひろの作品の誕生が、画 家になってだいぶ経ってからのものだったことが語られた。 少女の頃から、 岡田三郎助や中谷泰に師事してデッサンや油絵を描いていたものの、戦前は満 州でつらい体験をし、戦後は働きながら絵を描き、子育てをしながら、少しず つあの画風に迫って行ったのだという。

 いわさきちひろ記念財団の公式サイトに、「ちひろの技法」というのがあって、 水彩技法や制作プロセスを、詳しく解説している。 水彩絵具を駆使し、やわ らかで清澄な、独特の色調を生み出した。 水をたっぷり使ったにじみやぼか し、大胆な筆使いを活かした描法などは、西洋で発達した画材を使いながら、 むしろ中国や日本の伝統的な水墨画の技法や表現に近いものが見られる。

 「白抜き」……白い紙の地色を残して、その周りに、色を塗ることで、形を 表す。 「たらし込み」……たっぷりと水を含んだ筆で色を薄く塗り、その色 が乾かないうちに濃い色をおく。濃い色が薄い色ににじみ込んで乾き、偶然的 な色のグラデーションができる。 「渇筆法」……筆に水をあまり含ませない で、絵具をかすれさせる。 「潤筆法」……筆に水をたっぷり含ませて、絵具 をにじませる。絵具が乾く前に別の色をおくと、色が混ざり合い、複雑な色調 が得られる。

 展示の説明文を読んでいて、いわさきちひろさんの、にじむ色彩や絵具の押 し付け、余白の活用、用紙に変化を加えるなど、かずかずの新しい試みに、至 光社の武市八十雄さんという方との共同作業があったことを知った。 同じ公 式サイトの「いわさきちひろについて」に、武市八十雄さん自身が座談会でそ れを語っているのがあった。 絵本の制作にあたって、毎年3月から5月の10 日間、岩崎さんと武市八十雄さんと編集者とで、熱海ホテルへ武市さんの運転 で、いわゆる缶詰に行く。 文章と絵を支えるような案を、武市さんが出す。  言うにいわれないようなものをなにか、しかもその一言を聞いたら、絵描きさ んがもう全部わかったというよう気持になれるだけのものを、用意する。 そ うして出来たのが、『あめのひのおるすばん』であり『あかちゃんのくるひ』だ った。

 もう一つ、武市さんが岩崎さんとの仕事で、ものさしにしたのは、引き算を やろうということ。 これは10年前に海外に出て、日本の絵本全体について 忌憚のない意見を、向こうの編集者や画家やライターの人たちに聞いたところ、 つまり足し算じゃないか、悪いとはいわないが、引き算の感覚がぜんぜんない と言われた。 ちょうどその頃、武市さんは禅にこっていたので、禅の絵の世 界では、絵というものは、破墨、それから捨業、捨てる業、捨てることにある、 と聞いていた。 それが岩崎さんと二人、ピンときたもので、ギリギリまで捨 てていこう、となった。 それで引き算の絵本が4冊ぐらい出来、『ゆきのひ のたんじょうび』あたりから、今度は掛け算を狙っていこうとなった。 マイ ナスとマイナスを掛けるとプラスになるじゃないか、とか言って。

岩崎さんが岩崎さんになって行く過程2018/09/03 06:55

 いわさきちひろさんの年譜を見ると、こうある。 1958(昭和33)年39歳 ……至光社の月刊絵雑誌『こどものせかい』に描き始める。 1968(昭和43) 年49歳……絵で展開する絵本を試みた最初の作品『あめのひのおるすばん』(至 光社)を描く。以後、至光社の武市八十雄とともに意欲的に絵本を制作する。   1969(昭和44)年50歳……『あかちゃんのくるひ』(至光社)。 1970(昭和 45)年51歳……パステルで『となりにきたこ』(至光社)。現存するパステル 画のほとんどは、この年に描く。『あかちゃんのくるひ』(至光社)(重複してい るのは、パステル画版ということか?)。 1971(昭和46)年52歳……『こ とりのくるひ』(至光社)を描き、1973年ボローニャ国際児童書展にてグラフ ィック賞を受賞。 1972(昭和47)年53歳……『ゆきのひのたんじょうび』 (至光社)。 1973(昭和48)年54歳……『ぽちのきたうみ』(至光社)。 1974 (昭和49)年8月3日、肝臓ガンのため死去、55歳。

 至光社と武市さんというお名前に関して、私には、知っている方が、大学の 同期に二人いた。 一人は、武市純雄さん、ご実家が至光社と聞いていた。 さ っそくメールで、武市八十雄さんについて伺うと、14歳年上のお兄様で、昨年 亡くなられたとのことだった。

 もう一人は、絵本編集者の末盛千枝子さん、最初、至光社にお勤めになった と、記憶していた。 メールでお尋ねすると、いわさきちひろさんと武市八十 雄さん、お二人についての思い出は尽きないという。 ちょうど、その頃、至 光社にいて、岩崎さんが岩崎さんになって行く過程を見ていたそうだ。 実に 恵まれた時代にいたことになる、と。 展覧会で、そのあたりのことが、きち んと紹介されていることに安堵するとも、おっしゃる。 しかし、それは、私 には展示の説明文の中にあった「武市八十雄」というお名前に反応したことか ら、わかってきたことで、展覧会を見た人の誰もがそれを認識したかは、はな はだ疑問である。

戦前のつらい体験、戦後は貧困のなか絵を描く2018/09/04 07:17

いわさきちひろさんを扱った8月12日放送の日曜美術館が、「“夢のような あまさ”をこえて」という題だったことにも、ちょっと触れておきたい。 当 然、やわらかな色でほんわかと描かれた、可愛らしい子供や花の絵を、批判し ている題ではない。 それを描くに至るまでの、いわさきちひろさんの人生の 軌跡を物語ったのだった。 いわさきちひろ記念財団のサイトの年譜を参照し て見てみたい。

いわさきちひろ(岩崎知弘)さんは、1918(大正7)年12月15日に、父・ 岩崎正勝(陸軍築城本部の建築技師)、母・文江(女学校の教師。博物家事・理 科)の長女として、母の単身赴任先の福井県武生(現・越前市)で生まれた。  ことし生誕100年になるわけだ。 渋谷の道玄坂、四反町(現・東)、向山町 (現・恵比寿南)で育ち、12歳で府立第六高女(現・三田高校)に入る。 第 六高女は自由な学校で、短髪が多く、いわさきちひろさんの後までの短髪はそ れに由来するそうだ。 14歳、目黒に住み、岡田三郎助に師事、デッサンや油 絵を学ぶ。 17歳、第六高女卒業。 1939(昭和14)年20歳、4月婿養子を 迎え結婚、夫の勤務地満州の大連へ。 1940(昭和15)年21歳、母が第六高 女を退職して、大日本連合青年団(のちの大日本青年団)主事となる。 1941 (昭和16)年22歳、3月夫の自殺により帰国。 書家をめざし、文化服装学 院で習字を教える(絵のように、左手で書いたのだろうか?)。 中野区千代田 町(現・本町付近)に住む。 1942(昭和17)年23歳、中谷泰に師事。 1944 (昭和19)年25歳、4月女子義勇隊に同行し、中谷泰、妹・世史子とともに 満州勃利(中国黒龍江省)渡る。 夏、戦況悪化のため帰国。

1945(昭和20)年26歳、5月東京山の手の空襲で、中野の家を焼かれ、母 の実家(長野県松本市)に疎開、終戦を迎える。 (「日曜美術館」で見たのだ が、母が満州への「大陸の花嫁」運動に関わっていたため、両親が公職追放処 分を受け)秋、両親が北安曇郡松川村(現・安曇野ちひろ美術館所在地)で、 開拓を始める。 1946(昭和21)年27歳、松本市で日本共産党に入党。 春、 上京し人民新聞の記者になる。 日本共産党宣伝部・芸術学院に入る。 赤松 俊子(原爆の絵の丸木俊)に師事。 1947(昭和22)年28歳、4月前衛美術 会創立に参加。 5月初めての単行本『わるいキツネそのなはライネッケ』(霞 ヶ関書房)の挿絵を描く。 日本民主主義文化連盟(文連)の依頼で紙芝居『お 母さんの話』を描く。 このころ、画家として立つことを決意する。

1950(昭和25)年31歳、1月、前年、日本共産党の活動のなかで知り合い 「いわさきちひろ、絵描きです」と名乗ったという松本善明と結婚。 紙芝居 『お母さんの話』で文部大臣賞受賞。 1951(昭和26)年32歳、4月長男猛 誕生。 6月、経済的事情のため、やむなく息子を長野県松川村の両親に預け る。 この間、ひんぱんに松川村に通い、多くのスケッチを描く。 1952(昭 和27)年33歳、練馬区下石神井(現・ちひろ美術館所在地)に家を建て、家 族3人で暮し始める。

「国民を思い、国民のために祈る」天皇の務め2018/09/05 07:26

 1日の早朝、ベッドでラジオをつけると、「ラジオ深夜便」の最後のあたりで、 保阪正康さんが若い方と対談をしていた。 一昨年8月8日の天皇陛下のおこ とば(象徴としてのお務め)についての話だった。 あのおことばは、国民に 「天皇像」を考えてくれるようにと、投げかけたものであったというのである。 (憲法は天皇について、「この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」と 規定している。) 天皇陛下のメッセージの眼目は、天皇の象徴としての務めが 「国民の安寧と幸せを祈る」「国民を思い、国民のために祈る」ことであり、高 齢になってその務めが全身全霊をもって果たせなくなることを憂えたものだっ た、そのため摂政を置くこと(天皇が務めを果たせぬまま天皇であり続けるこ と)にも反対していた。 それは天皇陛下が即位以来、天皇の望ましい在り方 を日々模索しつつ過ごしてきて、我が国の長い天皇の歴史を改めて振り返り、 これからも皇室がどのような時にも国民と共にあり、相たずさえてこの国の未 来を築いていけるよう、そして象徴天皇の務めが常に途切れることなく、安定 的に続いていくことをひとえに念じて、そのお気持を表明されたものだった。

「国民を思い、国民のために祈る」ことこそが、天皇の務めだとする今上陛 下のお考えについての、保阪正康さんの話を聞いて、私は以前、「お濠の内の祭」 というのを書いていたのを思い出した。

     等々力短信 第999号 2009(平成21)年5月25日

                 お濠の内の祭

     「象徴天皇 素顔の記録」(4月10日・NHKスペシャル)で、知らなかった ことがいくつかあった。 その一つは、日本国憲法で天皇家の私的な行事とな った、春分の日の春季皇霊祭・春季神殿祭に、皇族方はともかく、今でも総理 大臣始め三権の長(江田五月参院議長の姿もあった)が参列していることだっ た。 この二つの祭は旧皇室祭祀(さいし)令(1908(明治41)年制定)で 「大祭ニハ天皇皇族及官僚ヲ率ヰテ親ラ祭典ヲ行フ」とある「大祭」にあたる。 皇室祭祀令は、日本国憲法が施行される前日の、1947(昭和22)年5月2日 に廃止された。 だが、天皇は今でも、皇居の宮中三殿で一年間に、三十回前 後も行なわれる「宮中祭祀」に出席している。

 原武史さんの『昭和天皇』(岩波新書)を読むと、昭和天皇が宮中祭祀をきわ めて重要なものと考え、熱心だったことがわかる。 高齢の天皇に配慮して、 入江相政侍従長が祭祀の負担軽減を進めても、11月23日の新嘗(にいなめ) 祭にはこだわり、「夕(よい)の儀」だけは自らが行なった。 新嘗祭は本来「夕 の儀」と「暁の儀」の二つの祭から成り、二時間ずつの正座が必要で、夕方か ら未明までかかる。 昭和天皇は新嘗祭が近づくと、テレビを見ている時でも あえて正座し、その日に備えたという。 「素顔の記録」でも、現天皇がテレ ビを見る時は、ほとんど正座して備えていると、一昨年まで務めた渡辺允前侍 従長が語っていた。 原武史さんは、現天皇が「現皇后とともに、宮中祭祀に 非常に熱心で」「その熱心さは、古希を過ぎても一向に代拝させないという点で、 昭和天皇を上回っている」と書いている。 昭和天皇も、現天皇も皇后も、見 るからに、真面目なお方のようだ。 その強い責任感で、“皇祖皇宗”からの「伝 統」に縛られているところがあるのではないか。 1960年代生れの、皇太子ご 夫妻の悩みも、一つには、そのあたりに発してはいないのだろうか。

 京都東山区に泉涌寺(せんにゅうじ)という真言宗の寺がある。 江戸時代 には天皇家の菩提寺で、御寺(みてら)と称した。 室町時代前期の後光厳か ら江戸時代末の孝明(明治天皇の父)まで歴代天皇の葬儀は、神式でなく、泉 涌寺で執行された。 明治維新後、天皇を中心とする明治新政府の樹立という 大変革は泉涌寺に大きな変化を与えた。 新政府は祭政一致を方針とし、神道 の国教化を推進した。 「宮中祭祀」も、新嘗祭を除くほとんどが、明治にな って創られた「伝統」なのである。