下士の鬱屈、英語とイギリス兵学を学ぶ2018/09/12 07:19

 関良基さんの『赤松小三郎ともう一つの明治維新 テロに葬られた立憲主義 の夢』で、その後の赤松清次郎(小三郎)の足跡をたどろう。 遣米使節が旅 立った万延元(1860)年、3月になって養父が亡くなり赤松家を相続した。 翌 文久元(1861)年正月、清次郎は小三郎と改名している。 家督を相続したこ とにより、上田から離れられなくなった。 赤松家も十石三人扶持の微禄、長 崎で最先端の学問を身につけて帰国した人物を処遇するものではなかった。  以降、小三郎は元治元(1864)年まで上田で鬱屈した時期を過ごす。 <家柄 は云ふな雪解の黒濁り>という句があるそうだ。 「調練調方御用掛」「砲銃道 具製作御掛」などにつき、藩の兵制の洋式化に努めた。 その間の文久3(1863) 年、百石取の松代真田家家臣・白川久左衛門の娘たかと結婚、妻の実家のある 松代に蟄居中の佐久間象山と面会、以後、象山と文通する関係になった。

 小三郎がふたたび江戸に出られたのは、元治元(1864)年9月、第一次長州 征伐に際して、小銃など武器の買い付けのためだった。 小三郎は、この機を とらえ、11月には横浜居留地警護のために駐留していたイギリス騎兵士官ヴィ ンセント・J・アプリン大尉に会い、英語を教えてくれるように頼み込み、見 込まれて直接英語を学ぶことができた。 もっとも、それ以前に独学で、かな りの水準の英語力を身につけていたようで、アプリンから借りた騎兵術につい ての英書を6日間で読了して、アプリンを驚かせた。 慶應元(1865)年2月 には下曾根塾に再入門、金沢の浅津富之助(後の海軍官僚南郷茂光)と共に、 英国陸軍の歩兵調練の教本(歩兵の野外演習と運動法)の翻訳に着手する。 と ころが4月第二次長州征伐の令が下り、上田松平家は将軍・家茂に従って大坂 在陣を命じられる。 小三郎も大坂へ行き、公務の暇を見つけては翻訳を進め、 慶應2(1866)年3月に、『英国歩兵練法』全5編8冊の完訳が成り、下曾根 塾から出版された。 全5編中。1・3・5編が小三郎訳、2・4編が浅津富之助 訳だった。

 『英国歩兵練法』の翻訳出版がなると、小三郎は政治活動を活発化させた。  慶應2(1866)年8月には幕府へ、9月には上田藩主・松平忠礼(忠固の子、 当時19歳)へ、それぞれ建白書を提出している。 幕府へは、長州再征につ いて、勝算の立たない戦はすべきでなく、そもそも武力に訴える道理もないと し、列藩が命令に服さなければ、勝てないのは当然である、旧来の身分制度に とらわれず、その能力に応じて人材を登用すべきである、というものだった。  藩主・松平忠礼へは、さらに厳しく身分制度の打破を訴え、身分の低い者であ っても自由に意見を述べる権利を与えるよう制度を改正すべきで、人材を選ぶ 際には「学術」と「智略」を基準すべきというものであった。

 これを読んだためか、若き松平忠礼とその異母弟・忠厚は、明治維新後、米 国ラトガース大学に留学した。 忠礼は外務省に奉職、忠厚はアメリカで土木 工学者として活躍している。