皇后様と島多代さん・小泉信三さん2018/09/08 07:14

 昨年11月3日の当日記に、私は「皇后様と末盛千枝子さん」を書いて、こ う書いていた。 「末盛千枝子さんの『人生に大切なことはすべて絵本から教 わった』(現代企画室)という本の中で、森鷗外『即興詩人』の講演をしてい る安野光雅さんは、末盛さんの依頼に、講演はしない建前を崩した内幕を「皇 后様に英訳を頼みに行くという編集者は、まず、いないですよ。皇后様に頼み に行った人なんて。まど・みちおさんの本もですね。」と明かしている。」

 末盛千枝子さんのすえもりブックスが、まど・みちおさんの詩を皇后様が選・ 英訳された『どうぶつたち THE ANIMALS』を出版したのが1992年9月、26 年が経っている。 「根っこと翼・皇后美智子さまに見る喜びの源」第3回「共 にはたらく人たち」を読むと、そもそも末盛さんと皇后様を結びつけるのに、 IBBY(国際児童図書評議会)会長を務め昨年11月27日に亡くなった島多代 さんの存在が大きかったことがわかる。 皇后様は、島多代さんが聖心女子大 学に入学した時には、最上級生の4年生だった。 中学時代にはお姉さまの同 級生として親しんでおり、その健脚が「カモシカ少女」として知られていたし、 大学では「当時から全学生が仰ぎ見ていましたが、それでいて、常に人に奉仕 される姿勢を貫かれていました」(読売新聞「時代の証言者」)と語っているそ うだ。 島多代さんの大叔父さまが両陛下のご結婚の実現に尽力された東宮御 教育参与の小泉信三さんだったことも、皇后様と島多代さんの間を一層親しい ものにしていたのではないだろうか、とある。 島多代さんの祖父は松本烝治、 祖母は小泉信三さんの姉・千、父は松本正夫慶應義塾大学教授(哲学)。 これ は知らなかったが、至光社に勤め、いわさきちひろの編集を担当し、日本の絵 本を売り込みに海外の見本市に行ったりし、末盛さんは同僚だったと「ウィキ ペディア」にあった。

 島多代さんは、皇后さまのために世界に対して少しでも親しい感じのする新 しい「窓」を開いて差し上げたいと思っていたのではないか、と末盛さんは書 き、それは丁度お若い日の天皇陛下のかけ値のないお姿を少しでも国民に知っ て欲しいという大叔父・小泉信三さんの願いとも似通うものであったかもしれ ないと言う。 小泉さんは、ある日自宅で夕食の時、今日は殿下をひどく叱っ たと言って泣かれたことがあったという。 教育掛として、それほど真剣だっ た。 いよいよご婚約という時には、小泉さんが正田家を訪ねて、皇太子様が どのような方か、そして、どのようなことを望んでおられるかを美智子様に丁 寧に話されたようだ。

 おなじ第3回に、黒木従達侍従が小泉信三さんの依頼でほぼ一人で全行程に たずさわった御成婚にいたる経緯を記したものに(時事通信社から出た写真集)、 こうあると特筆されている。 陛下は熱心に結婚して欲しいとおっしゃりつつ も、自分にとっては天皇の務めが常に全てに優先するという厳しいお言葉もし っかりお伝えになっており、その陛下のお立場に対する御心の定まりようこそ が、皇后様を最後にお動かししたものであった、と。

 第7回「共に在る」に、末盛さんは「皇太子としてのお立場が、何よりもま ず第一に優先されるという芯の部分は、ビクとも動かなかったという。そして、 結局はそれこそが皇后さまのお気持ちを射止めたのだろう。」「また、皇后さま も、そのような陛下の御こころの定まり様にこそ魅力をお感じになり、最終的 にご自分の人生を陛下のお側にと決められたのだということが、この六十年近 い年月を振り返る時、はっきりと見えて来るように思われる。」と書いている。

 最終回「ヴェロニカの花」に、宮中祭祀のことが出て来る。 両陛下が全身 全霊でその時出来ることをされると共に、そこにいつも祈りがあったことが、 両陛下が何よりもまず皇室の神事を大切にされてきた過去のお姿からよく分か る、というのだ。 国民の幸せを祈ることをご自分たちのレゾンデートル(存 在理由)としておられる両陛下だが、特に陛下が夕べ、暁と、長時間をかけて その年の収穫を感謝され、神様にお供えになると共に御自分でも召し上がる新 嘗祭(にいなめさい)の儀式のことは、いつ聞いても心打たれる、と末盛さん は書いている。 この祭祀の間、皇后様は陛下に御心を合わせるように、その 年に全国から奉納されたお米と粟の名前を毛筆で一つ一つ紙に書き写すなどし て過ごしておられるという。 夜寒という詞書のある御歌。

  新嘗(しんじょう)のみ祭果てて還ります君のみ衣夜気冷えびえし