戦前のつらい体験、戦後は貧困のなか絵を描く2018/09/04 07:17

いわさきちひろさんを扱った8月12日放送の日曜美術館が、「“夢のような あまさ”をこえて」という題だったことにも、ちょっと触れておきたい。 当 然、やわらかな色でほんわかと描かれた、可愛らしい子供や花の絵を、批判し ている題ではない。 それを描くに至るまでの、いわさきちひろさんの人生の 軌跡を物語ったのだった。 いわさきちひろ記念財団のサイトの年譜を参照し て見てみたい。

いわさきちひろ(岩崎知弘)さんは、1918(大正7)年12月15日に、父・ 岩崎正勝(陸軍築城本部の建築技師)、母・文江(女学校の教師。博物家事・理 科)の長女として、母の単身赴任先の福井県武生(現・越前市)で生まれた。  ことし生誕100年になるわけだ。 渋谷の道玄坂、四反町(現・東)、向山町 (現・恵比寿南)で育ち、12歳で府立第六高女(現・三田高校)に入る。 第 六高女は自由な学校で、短髪が多く、いわさきちひろさんの後までの短髪はそ れに由来するそうだ。 14歳、目黒に住み、岡田三郎助に師事、デッサンや油 絵を学ぶ。 17歳、第六高女卒業。 1939(昭和14)年20歳、4月婿養子を 迎え結婚、夫の勤務地満州の大連へ。 1940(昭和15)年21歳、母が第六高 女を退職して、大日本連合青年団(のちの大日本青年団)主事となる。 1941 (昭和16)年22歳、3月夫の自殺により帰国。 書家をめざし、文化服装学 院で習字を教える(絵のように、左手で書いたのだろうか?)。 中野区千代田 町(現・本町付近)に住む。 1942(昭和17)年23歳、中谷泰に師事。 1944 (昭和19)年25歳、4月女子義勇隊に同行し、中谷泰、妹・世史子とともに 満州勃利(中国黒龍江省)渡る。 夏、戦況悪化のため帰国。

1945(昭和20)年26歳、5月東京山の手の空襲で、中野の家を焼かれ、母 の実家(長野県松本市)に疎開、終戦を迎える。 (「日曜美術館」で見たのだ が、母が満州への「大陸の花嫁」運動に関わっていたため、両親が公職追放処 分を受け)秋、両親が北安曇郡松川村(現・安曇野ちひろ美術館所在地)で、 開拓を始める。 1946(昭和21)年27歳、松本市で日本共産党に入党。 春、 上京し人民新聞の記者になる。 日本共産党宣伝部・芸術学院に入る。 赤松 俊子(原爆の絵の丸木俊)に師事。 1947(昭和22)年28歳、4月前衛美術 会創立に参加。 5月初めての単行本『わるいキツネそのなはライネッケ』(霞 ヶ関書房)の挿絵を描く。 日本民主主義文化連盟(文連)の依頼で紙芝居『お 母さんの話』を描く。 このころ、画家として立つことを決意する。

1950(昭和25)年31歳、1月、前年、日本共産党の活動のなかで知り合い 「いわさきちひろ、絵描きです」と名乗ったという松本善明と結婚。 紙芝居 『お母さんの話』で文部大臣賞受賞。 1951(昭和26)年32歳、4月長男猛 誕生。 6月、経済的事情のため、やむなく息子を長野県松川村の両親に預け る。 この間、ひんぱんに松川村に通い、多くのスケッチを描く。 1952(昭 和27)年33歳、練馬区下石神井(現・ちひろ美術館所在地)に家を建て、家 族3人で暮し始める。