「国民を思い、国民のために祈る」天皇の務め2018/09/05 07:26

 1日の早朝、ベッドでラジオをつけると、「ラジオ深夜便」の最後のあたりで、 保阪正康さんが若い方と対談をしていた。 一昨年8月8日の天皇陛下のおこ とば(象徴としてのお務め)についての話だった。 あのおことばは、国民に 「天皇像」を考えてくれるようにと、投げかけたものであったというのである。 (憲法は天皇について、「この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」と 規定している。) 天皇陛下のメッセージの眼目は、天皇の象徴としての務めが 「国民の安寧と幸せを祈る」「国民を思い、国民のために祈る」ことであり、高 齢になってその務めが全身全霊をもって果たせなくなることを憂えたものだっ た、そのため摂政を置くこと(天皇が務めを果たせぬまま天皇であり続けるこ と)にも反対していた。 それは天皇陛下が即位以来、天皇の望ましい在り方 を日々模索しつつ過ごしてきて、我が国の長い天皇の歴史を改めて振り返り、 これからも皇室がどのような時にも国民と共にあり、相たずさえてこの国の未 来を築いていけるよう、そして象徴天皇の務めが常に途切れることなく、安定 的に続いていくことをひとえに念じて、そのお気持を表明されたものだった。

「国民を思い、国民のために祈る」ことこそが、天皇の務めだとする今上陛 下のお考えについての、保阪正康さんの話を聞いて、私は以前、「お濠の内の祭」 というのを書いていたのを思い出した。

     等々力短信 第999号 2009(平成21)年5月25日

                 お濠の内の祭

     「象徴天皇 素顔の記録」(4月10日・NHKスペシャル)で、知らなかった ことがいくつかあった。 その一つは、日本国憲法で天皇家の私的な行事とな った、春分の日の春季皇霊祭・春季神殿祭に、皇族方はともかく、今でも総理 大臣始め三権の長(江田五月参院議長の姿もあった)が参列していることだっ た。 この二つの祭は旧皇室祭祀(さいし)令(1908(明治41)年制定)で 「大祭ニハ天皇皇族及官僚ヲ率ヰテ親ラ祭典ヲ行フ」とある「大祭」にあたる。 皇室祭祀令は、日本国憲法が施行される前日の、1947(昭和22)年5月2日 に廃止された。 だが、天皇は今でも、皇居の宮中三殿で一年間に、三十回前 後も行なわれる「宮中祭祀」に出席している。

 原武史さんの『昭和天皇』(岩波新書)を読むと、昭和天皇が宮中祭祀をきわ めて重要なものと考え、熱心だったことがわかる。 高齢の天皇に配慮して、 入江相政侍従長が祭祀の負担軽減を進めても、11月23日の新嘗(にいなめ) 祭にはこだわり、「夕(よい)の儀」だけは自らが行なった。 新嘗祭は本来「夕 の儀」と「暁の儀」の二つの祭から成り、二時間ずつの正座が必要で、夕方か ら未明までかかる。 昭和天皇は新嘗祭が近づくと、テレビを見ている時でも あえて正座し、その日に備えたという。 「素顔の記録」でも、現天皇がテレ ビを見る時は、ほとんど正座して備えていると、一昨年まで務めた渡辺允前侍 従長が語っていた。 原武史さんは、現天皇が「現皇后とともに、宮中祭祀に 非常に熱心で」「その熱心さは、古希を過ぎても一向に代拝させないという点で、 昭和天皇を上回っている」と書いている。 昭和天皇も、現天皇も皇后も、見 るからに、真面目なお方のようだ。 その強い責任感で、“皇祖皇宗”からの「伝 統」に縛られているところがあるのではないか。 1960年代生れの、皇太子ご 夫妻の悩みも、一つには、そのあたりに発してはいないのだろうか。

 京都東山区に泉涌寺(せんにゅうじ)という真言宗の寺がある。 江戸時代 には天皇家の菩提寺で、御寺(みてら)と称した。 室町時代前期の後光厳か ら江戸時代末の孝明(明治天皇の父)まで歴代天皇の葬儀は、神式でなく、泉 涌寺で執行された。 明治維新後、天皇を中心とする明治新政府の樹立という 大変革は泉涌寺に大きな変化を与えた。 新政府は祭政一致を方針とし、神道 の国教化を推進した。 「宮中祭祀」も、新嘗祭を除くほとんどが、明治にな って創られた「伝統」なのである。

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