福沢諭吉の「長州再征に関する建白書」2021/06/17 07:07

 「こんばんは、徳川家康です、じゃなくて、福沢諭吉です。 幕臣となった私は、慶應2(1866)年7月、長州征討のはかばかしくないのを聞き、この難局を乗り切るには中央政府の権力を強大にする外ないと考えて、「長州再征に関する建白書」を書きました。 しかし、幕閣に手づるがないので、先年咸臨丸訪米の際、従者として連れて行ってもらった木村喜毅軍艦奉行が、再び軍艦奉行並となって返り咲いていたので、託したのであります。」

 慶應義塾刊の『福澤諭吉事典』を見てみよう。 7月20日には第14代将軍徳川家茂が出陣先の大坂で死去した。 『木村摂津守喜毅日記』の7月29日の項に、「朝、福沢来る、建白書一を示す」とあり、これが「長州再征に関する建白書」と考えられる。 木村喜毅は、9月6日に老中小笠原長行(ながみち)を京都の宿舎(平山洋さんによると『木村摂津守喜毅日記』で大坂御堂筋大江橋近くの唐津藩蔵屋敷)に訪ね、福沢の建白書と『写本西洋事情』を上呈したと思われる。

 そこで「長州再征に関する建白書」だが、再征を全面的に支持し、それを成功に導くために二か条の方策を示している。 第一条では、長州が幕府の外交権を無視し、独自に外国と接触し大名同盟論などを主張している現状に対し、外国で発行されている新聞あるいは横浜で発行されている英字新聞に寄稿して、こうした長州などの主張を論破すべく、主権者としての幕府を対外的にしっかりと喧伝すべきである、と述べている。 第二条では、外国の軍事力を借りて、長州を圧倒すべきであるとし、その際に必要な費用は長州制圧後幕府がこの領地を直轄し、その収入を担保に国債を発行すべきである、という。

 そして最終的には福沢は、長州再征を好機として「唯(ただ)一挙動にて御征服相成、其御威勢の餘を以て他諸大名をも一時に御制圧被遊(あそばされ)、京師をも御取鎮に相成」と、反幕的な大名や朝廷を圧伏し、「外国交際の事抔(など)に就ては全日本国中の者片言も口出し不致(いたさざる)様仕度義に奉存(ぞんじたてまつり)候」と、「封建の御制度」を一変するほどに将軍の威光を天下に示すべきことを主張している。

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