武士の狂歌師や戯作者が、江戸吉原で町人文化と交叉2021/06/25 06:54

 蔦屋重三郎は、『吉原細見』の「改め」業者になった安永3(1774)年、早くも自社出版として北尾重政の画で構成された『一目千本』(別名『華すまひ』)を刊行した。 遊女を花に見立てていて、恐らくスポンサー付きの配りものだろうという。 ちょうど18世紀後半は、生け花の世界が「抛入花(なげいればな)」から「生花(いけばな)」へ変わるころだった。 生け花は見立て絵の素材として出版市場に乗るようになっており、1760年代には妓楼で複数の花会が開催され、明和7(1770)年には高崎藩士で洒落本作家の蓬莱山人が『抛入狂歌園』という見立て絵本を出している。 これは生け花を鈴木春信や桐屋五兵衛(飴屋)、丁子屋喜左衛門(歯磨き粉屋)、笠森お仙など、当時の江戸の有名人たちに見立てた本であった。

 生け花は茶の湯に関連した武士の世界のものだろうが、その武士が江戸文化に狂歌師や戯作者として乗り出してきて、彼らの担った文化は江戸で町人文化と交叉した。 町人の版元が経営する出版業界に、多くの武士たちが、その深い教養と文化ごと入って来たのである。 『一目千本』は明らかに『抛入狂歌園』の踏襲であり、遊女はこの本で、花にみたてられる江戸の著名人の仲間入りをしたのである。 吉原と遊女は蔦屋の仕事を通して、「江戸文化」そのものになっていった。

 田中優子さんは、「花魁」という文字を気にする。 「花のさきがけ」という意味だ。 1760年代に「太夫」という位が消滅し、その後に「おいらん」という言葉が出て来る。 この文字が当てられたのは明和7(1770)年より後であろう。 だとすると、花に見立てるということが出版上でおこなわれ、その結果として「花魁」という文字が出現したと考えることも可能なのではないだろうか、と言うのだ。

 『一目千本』には、これから刊行される本の広告が載っている。 本に別の本の広告を載せることは、蔦屋から始まった新しい戦略である。 現在の日本の書籍ではよく見られることだが、海外の書籍には見当たらない。 世界中の出版物を調査しなければ結論は出せないが、本を広告媒体とした世界初の事例かもしれない、と田中優子さんは書いている。

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