ある同“窓”会の物語<等々力短信 第1151号 2022(令和4).1.25.>2022/01/18 07:10

 「渡し船に乗って川を越そうとしている老人、何十年か前に、今は亡き親友と連れ立って、同じ渡しを渡っていた。船が着くと、二人分の渡し賃を船頭に払い、お前さんには見えなかったろうが、私は連れと一緒だったつもりだから、と言った。」 子供の頃に読んだ、この詩のことが忘れられないのだが、以来50年、その詩に会えていないでいる。 どこの国の誰の詩か、何の本にあるか、どなたか教えて下されば幸いである。 1956(昭和31)年9月13日の朝日新聞「声」欄、猪間驥一(大学教授)の投書がドラマの始まりだった。 猪間は統計学の中央大学教授、石橋湛山のブレーンだった。

 投書には、約40名から反響があった。 山岡望は、第一高等学校卒業前の送別会で新渡戸稲造校長から、この「渡し場」の詩を聴いて感銘を受けていた。 小出健は、中央大学予科のドイツ語教師・難波準平が最後の授業で、「諸君は明日から別れ別れになるがお互いに忘れないで欲しい」と、泣かんばかりに、この詩を詠じた、と。

 ドイツの詩人、ルートヴィヒ・ウーラントが1823年につくった24行の詩「渡し場」だと判明、猪間驥一と小出健の共訳が文語の定訳となった。 1961(昭和36)年にドイツに留学した猪間は、この詩を歌いたいと、ハイデルベルクの地元紙に「渡し場」の曲・楽譜を探していると投書した。 猪間は1969年に亡くなったが、その4年後、ウーラントと同時代の作曲家、レーヴェがこの詩を作曲していたという情報がもたらされる。 1976年にはドイツの公共国際放送ドイチェ・ヴェレが、この歌曲を放送した。

 ウーラント同“窓”会編『「渡し」にはドラマがあった』(荒蝦夷・刊)という本を下さった中村喜一さん(他、全て敬称略)は、大学時代のクラブ文化地理研究会の二年先輩で、「日本における「渡し場」の伝播と受容―1956年9月まで―」など三編を寄せている。 「渡し場」を自著『世渡りの道』(1912)などで、日本に初めて紹介したとみられる新渡戸稲造は、ドイツ留学に先立つアメリカ留学時(1884~1887)に、英訳詩で知り、18歳の時、死に目に会えなかった母親を憶う心を揺さぶられて暗誦するようになり、次にドイツ語の原詩を知ったのだろうと推定する、山岡望説を採っている。

 2006年5月28日、紀尾井ホールでレーヴェ全歌曲演奏会があり、声楽家の佐藤征一郎がバス・バリトンでウーラント作詞「渡し」を朗々と歌った。 沸き上がる拍手の中、一人の老人が立って、佐藤に向かい深々と頭を下げた。 小出健(78歳)だった。 隣にいた松田昌幸(69歳)は、40歳の時にラジオで「渡し」の詩を知り、佐藤に楽譜はないかと連絡した人だ。 その情景を高成田亨論説委員がコラム「窓」に書き、「渡し場」に思いを寄せる人たちが集まり、ウーラント同“窓”会ができた。

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