伊藤圭介翁、日本のフロラ(植物相)を我々の手で2022/02/06 07:44

 富太郎が東京で、博覧会と、もう一つの目的は教育博物館の博物局、小学校のあの「博物図」の編者、小野職愨(もとよし)に会うことだった。 著書『植学浅解初編』を熟読し、手紙は何度か出していた。 上司、天産部長の田中芳男も紹介してくれた、「博物図」動物部の編者、植物に科(ファミリイ)のあることを知った『垤甘度爾列(ドカンドルレ)氏植物自然分科表』の著者だ。 土佐の植物の目録を作りたいと、これまで作り続けてきた一尺ほどの植物の腊葉標本を見せる。(「腊葉」=さく葉(押し葉)という言葉を初めて知って、<小人閑居日記 2021.10.11.>標本園芸植物をヨーロッパに広めた「シーボルト商会」に書いていた。) 師は? と聞かれて、「野山と書物」、宇田川榕菴の『菩多尼訶経』と『植学啓原』、小野蘭山の『本草綱目啓蒙』、伊藤圭介先生の『泰西本草名疏』の名も挙げると、田中が「伊藤先生は僕の師だよ」と破顔した。 大学の植物園で植物取調を担当されているので、植物園か本郷真砂町の自宅を訪ねてみたまえと、住所を教えてくれた。

 伊藤圭介翁は、孫の篤太郎を紹介し、こう教え、激励してくれた。 「これからも山野を歩いて、腊葉作りにしかと取り組みなさい。今の日本の学者は西洋の文献の解釈は得意だが、実地に弱い、標本はシイボルト先生の指導によって始まったくらいであるから歴史が浅いゆえ、今もテーブル・ボタニーの傾向が強いのだ。自らの足を使い、土まみれになろうとせぬ」「腊葉と写生、どちらも大事だ。いずれ論考する際、いかなる状況でその論を得るに至ったか、基になった材料がなければ土台のない論になる」「標本を残すことは自らの観察の客観性を担保することになる。近代の科学には客観性が必要だ」「郷里でしっかり励むがいい。各地の研究者が土地の植物を調べてこそ、日本のフロラが明らかになる」

 篤太郎が、「祖父は文部省編書課に出仕していた8年前の明治6年、『日本産物志』山城と武蔵、近江の部を刊行。明治9年、美濃の部、一昨年には信濃の部を出しました」、伊藤翁が「日本のフロラを、我々日本人の手で」と言う。 富太郎は、「なら、土佐以西は牧野にお任せください」と胸を叩き、ワハハと仰向いた。

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