やさしくかくということ2023/11/11 07:05

私は若い頃、加藤さんの『整理学』から始まり、梅棹さんの『知的生産の技術』や川喜田二郎さんの「KJ法」に進み、桑原武夫さんや今西錦司さんに組織された共同研究の成果をかじった。 実のところ慶應より京大に、大きな影響を受けたといえるかもしれない。

加藤秀俊さんや梅棹忠夫さんの本を読んで、おおきな影響を受けたのは、その文章が読みやすかったということがあった。 加藤秀俊さんの(梅棹さんもそうだが)かき方(この段落はその方式でかく)原則は、できるだけ「やまとことば」をつかい、かな表記し、そのなかで「音読み」するばあいにかぎって漢字をつかう。 漢字の量がへって、文章はあかるい感じになる。

 加藤秀俊さんの『暮らしの世相史』に「日本語の敗北」という章がある。 「日本語の敗北」とは何か。 明治以来、日本語の表記について、福沢諭吉『文字之教』の将来的には漢字全廃をめざす漢字制限論、大槻文彦の「かなのくわい」、羅馬字会や田中館愛橘のローマ字運動などがあった。 戦前の昭和10年代前半、鶴見祐輔、柳田国男、土居光知が、それぞれ別に、日本語はむずかしいとして、改革案を出した。 当時、日本語が世界、とくにアジア諸社会に「進出」すべきだという政治的、軍事的思想があった。 しかし、日本語を「世界化」するための哲学も戦略もなく、具体的な日本語教育の方法も確立されなかった。 なにしろ国内で、「日本語」をどうするのか、表記はどうするのかといった重要な問題についての言語政策が不在のままでは、「進出」などできた相談ではなかった。 日本は戦争に破れ、文化的にも現代「日本語の敗北」を経験した、というのである。

 戦後、GHQのローマ字表記案を押し切って制定された当用漢字は、漢字の数を福沢が『文字之教』でさしあたり必要と推定した「二千か三千」の水準に、ほぼ一致した。 だが、その後の半世紀の日本語の歴史は、福沢が理想としたさらなる漢字の制限とは、正反対の方向に動いてきている。 それを加速したのが、1980年代にはじまる日本語ワープロ・ソフトの登場で、漢字は「かく」ものでなく、漢字変換で「でてくる」ものになったからだという、加藤さんの指摘は毎日われわれの経験しているところである。 加藤さんや梅棹忠夫さんは、福沢の「働く言葉には、なるだけ仮名を用ゆ可し」を実行して、動詞を「かたかな」表記している。 私などは、見た目のわかりやすさから、そこまで徹底できないで、「きく」「かく」と書かず「聞く」「書く」と書いている。 それがワープロ以降、次第次第に、「聞く」と「聴く」を区別し、最近では手では「書けない」字である「訊く」まで使っているのだ。 「慶応」も気取って、単語登録し「慶應」にしてしまった。 福沢のひ孫弟子くらいのつもりでいたのに、はずかしい。 深く反省したのであった。

私は「やさしくかくということ」が、日本語の自由化や国際化につながるものであるということに気づかなかった。 加藤秀俊さんの日本語自由化論にそれが指摘されていた。 それは、また明日。

コメント

コメントをどうぞ

※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。

※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。

※投稿には管理者が設定した質問に答える必要があります。

名前:
メールアドレス:
URL:
次の質問に答えてください:
「等々力」を漢字一字で書いて下さい?

コメント:

トラックバック