家康の対外政策ビジョン2024/03/16 07:19

 家康の対外政策のビジョンについて、国際日本文化研究センターのチームが20年前から研究を続けている。 海外に眠る史料は、家康の手紙、面会した外国使節の日記などが、さまざまな言語で書かれ、10万ページに及ぶ。 フレデリック・クレインス教授(日欧関係史)によると、家康は多くの国に書簡を送って交渉していた。 アジア諸国42通(カンボジア19通、アンナン13通、シャム4通、バタニ4通、チャンパ1通、タタン1通)、ヨールッパとその植民地64通(ルソン(スペイン領)32通、ノビスパン(メキシコ。スペイン領)6通、ゴア(ポルトガル領)8通、マカオ(ポルトガル領)9通、オランダ4通、イギリス3通、スペイン2通)。 13の国と地域に、合計106通も送っていて、全方位外交と呼ぶべきものだ。

 1611年、オランダ使節が家康、秀忠と面会し、日本は異国に対し自由で開かれている、警備や監視に邪魔されることなく自由に売買することが許されると言われた記録がある。 戦乱から国の経済を立て直し、成長する狙いがあった。 ただ、壁になったのは前政権秀吉の外交政策で、朝鮮を侵略しアジア諸国に領土を拡大する姿勢を見せ、宣教師たちを迫害したのを、諸外国が警戒したことだった。 ライデン大学の日本学科長イフォ・スミッツさんによると、オランダのマウリッツ公に送った書簡で、家康はオランダと新たな道を切り拓きたいとして、日本を陋国(ろうこく。取るに足らない国)とへりくだった表現で、警戒心を解こうとしている。 イギリスには、ジェームズ1世宛に破格の対応、どの港を利用しても構わない、江戸の好きな所に屋敷を建ててもよいなど、誘惑的な書簡を送っている。 家康は、狡猾な政治家で、優れた軍人であるだけでなく、外交問題にも戦略を巡らせた。

 各国の商人が来日し、スペインの商人は羅紗や眼鏡を家康に見せ、久能山の東照宮には家康愛用の鉛筆、コンパス(金銀象嵌けひきばし、地図の距離を測る)、ギヤマン、伽羅(香木)などが残っている。 鉄砲や大砲などの武器も、銀で購入し、石見銀山など鉱山を開発し、銀の産出量は世界の三分の一を占めたといわれる。 こうして、日本には世界の富が集まるようになる。 しかし、日本は大きな苦境に立たされる。              (つづく)

『家康の世界地図~知られざるニッポン“開国”の夢』2024/03/15 07:08

 12月17日放送のNHKスペシャル『家康の世界地図~知られざるニッポン“開国”の夢』が、とても興味深かったので、書いておきたい。 関ケ原で勝利した家康は、国内の政権基盤を確立するとともに、新しい国づくりを構想していた。 時は世界的に、大航海時代だった。 その秘策は、日本を世界に開く自由貿易で、この国を豊かにしようというものだった。 グローバルな国を目指す壮大な構想が、海外と日本の最新の歴史研究で、明らかになってきたという。

 《二十八都市萬国絵図屏風》(皇室所蔵)を家康が愛用しており、『駿府記』慶長16(1611)年9月20日に、これを見ながら海外の国々について議論していたとの記述がある。 左端のアメリカ大陸から、右端の日本までの世界地図と、42の民族が描かれ、もう一隻には世界の覇権を争う国王たちの姿(トルコ、スペイン、ペルシャなど)や名だたる都市や港の絵が描かれていた。 この絵図がどのようにして描かれたのか、その謎を解く鍵が、オランダ、アムステルダムの国立海洋美術館で見つかった。 地図製作者のブラウ家が1606年から1607年にかけて作った世界地図と一致した。 学芸員のディーデリック・ワイルドマンさんは、「航海に1年かかるのに、わずか4年後という驚異的な早さで世界情報を入手している。地図は家康が依頼したものと考えられる」と言う。

 家康が海外に関心を持ったきっかけは、慶長5(1600)年イギリス人航海士ウィリアム・アダムス(後の三浦按針)が豊後国にオランダ船リーフデ号で漂着したことだった。 アダムスが家族や友人に宛てた11通の手紙が残っている。 漂着すると、5隻の軍艦で王(家康)の宮殿(伏見城)に呼び出された。 家康に、日本に来た目的を聞かれ、オランダとイギリスから来て(スペインやポルトガルでなく)、貿易をしたい、友好を深めたい、と言った。 どういうルートで来たかは、世界地図を示し、マゼラン海峡を抜けてきた、と説明した。 時は大航海時代、ポルトガルは東回り、スペインは西回りの航路で、ヨーロッパからアジアへ向かい、各地でキリスト教を布教しながら、香辛料や武器の売買をして、巨万の富を得た。 16世紀後半、新勢力のイギリスとオランダが台頭し、各地で旧勢力と世界の覇権をかけて戦うようになっていた。 こうした世界情勢の中、日本では家康が関ケ原で勝利して、政権基盤を確立、外国との新たな関係を模索し始めていた。

 家康はアダムスに、世界情勢から、西洋人の習慣や信仰、家畜の種類まであらゆる質問をし、夜晩くまで側にいることになったという。 アダムスは、海外と貿易する利点を力説し、家康は日本にないものを貿易し、この国を豊かにすることを考えるようになった。                    (つづく)

「熱海の雪崩」考2024/02/29 07:09

 小泉信三さんについて、私が今まで書いたものの一覧を出そうと思っている。 その中で、ネットのブログで読めないものの一つに、この等々力短信「熱海の雪崩」があった。 興味深い話なので、「マクラ」として再録しておく。

        等々力短信 第1023号 2011(平成23)年5月25日                       熱海の雪崩

 「熱海の雪崩」が、ずっと気にかかっていた。 『慶應義塾史事典』のVII「社中の人びと」の「阿部泰蔵」の項目にある。 阿部泰蔵は、三河国下吉田(現愛知県新城市)生れ、慶應4(1868)年に福沢の塾に入り、明治2(1869)年には慶應義塾の教員となり、その年3か月ほど塾長も務めた。 当時は当番制、交代で塾長に任じたものだったそうだ。 福沢門下生の保険事業を実行しようという動きの中、その中核として阿部に白羽の矢が立ち、明治4(1871)年7月、日本最初の生命保険会社明治生命の創業者となる。 水上滝太郎(阿部章蔵)が四男なのは、小泉信三の著作でよく知られている。

 私の引っ掛かっていた記述は、「(大正)八年熱海温泉に逗留中、雪崩の被害に遭い瀕死の重傷を負う。以後自宅で療養、一三年一〇月二二日没、享年七五。」 温暖な熱海に雪は降ることはあったとしても、雪崩があったのだろうか、ということだった。

 5月16日、福澤先生ウェーランド経済書講述記念日の講演会で三田に行き、次の予定まで一時間ほどの時間があったので、卒業以来40数年ぶりに図書館に入った。 塾員(卒業生)は、慶應カードで入れてくれる。 レファレンス・カウンターで尋ねて、『慶應義塾史事典』の参考文献にあった明治生命保険相互会社編『本邦生命保険創業者 阿部泰蔵伝』(1971年)を、地下2階の書庫で探し出す。 第一三章 終焉 一「奇禍に遭う」に、当時明治生命大阪支店副長だった阿部章蔵の、後年の追憶が引用されている。

「大正八年二月、父は鈴木旅館に入湯中、雪崩(なだれ=ルビ)の為に浴室の天井の厚硝子が砕け、大腿部を深く剥(えぐ)られてあやふく即死せんとし、爾来六年間病床を離れる事が出来ず、晩年を苦痛のうちに終った。」 おそらく、これが『慶應義塾史事典』の、基だろう。 『水上滝太郎全集』十二巻13-4頁の引用とあったので、カウンターで見覚えたKOSMOSの端末を叩いて、地下3階にあった現物を読む。 その時、『水上滝太郎全集』の端に立っていた「補遺・年譜・索引」の袋を一緒に手にしたのがヒットだった。 年譜「大正八年(三十三歳)」「二月三日、父泰蔵、熱海温泉鈴木旅館に於て、入浴中、積雪の為玻璃窓砕け大腿部に重傷、爾来六年間病床を離れ得ざるに至る」。 「雪崩」よりも「積雪」で天井のガラスが割れたという方が、妥当ではなかろうか。

 気象庁お天気相談所と、そこから回された静岡気象台防災業務課にも電話してみたが、大正8(1919)年2月3日(福沢諭吉命日)の熱海の積雪の記録は確認できなかった。

呼び出し背中のカニカマ「スギヨ」、七尾市で被災2024/01/25 07:00

大相撲の呼び出しは、着物に裁付袴(たっつけばかま)で、着物の背中には、「紀文」「なとり」「スギヨ」「シーチキン」「救心」などスポンサーの名前が入っている。 水産加工品の会社が多いのは、なぜだろうか。 古くは大相撲と魚河岸の関係などからきているのか。 「なとり」は、おつまみ各種を埼玉の工場で生産している東京都北区の会社。 「スギヨ」は、カニカマなどの水産加工品を製造・販売し、本社や3工場が石川県七尾市にあり、従業員750名。 能登半島地震で被災した。

「スギヨ」は、1907(明治40)年七尾市作事町で杉野屋与作が練物屋の「杉与商店」を創業、ちくわの製造・販売を開始した。 主力商品のカニカマは、1972(昭和47)年、人工クラゲの開発の過程で、その失敗作がカニの風味に似ていることから誕生した。 「かに風味かまぼこ」である「珍味かまぼこ・かにあし」として、初めはフレーク状で製造・販売を開始する。 後に現在の棒状にし、最近は「香り箱」が主力。 1952(昭和27)年に販売を開始した「ビタミンちくわ」の元祖でもあり、長野県のソウルフードとなっている。 地元北陸での販売量は3割程度で、7割は主に長野県で消費されているという。 1986(昭和62)年には、米国ワシントン州アナコルテス市にスギヨUSAを設立した。

 杉野哲也社長は17日、朝日新聞の取材に、こう答えている。 七尾市内の3工場が被災、天井や壁が崩れたり、機械が倒れたりして、現在も操業を停止している。 工場を動かすことが、地域経済の活力になる。 「カニカマ」系から進めて、早いものは2月中に生産を再開したい。 「ビタミンちくわ」は、数か月遅れる見込み。 国や県に被災企業向けの支援の具体化を急ぐよう求める。 「事業者がいなくなれば、奥能登から人がいなくなる」と、危機感を強調した。

咸臨丸の勝海舟と福沢諭吉、目的の違い2024/01/16 07:00

 「修身要領」は、信用のおける弟子たちが、福沢のいい言葉を選んだ。 ご飯を食べることから細かく、家庭をうまくやることを書き、2歳の子供の頭にも入った。 その原因、因縁は、咸臨丸渡米から始まっている。 もっとも、福沢の実証的発想は、子供の時に神様の祠で試した頃からあったのだけれど。

 咸臨丸には、勝海舟と福沢諭吉、二人の重要な人物が乗っていた。 勝海舟は、幕府、日本を背負っていて、日本も世界に認められる国にという意図を持つ、政治家だった。 海軍をつくり、意地で遣米使節にむりやり咸臨丸で付いて行った。 途中、小舟を出して、小笠原の父島に上陸しようとした。 小笠原は、太平洋の要衝で、列強、特にアメリカが狙っていた。 幕府のミッションで、様子を見、日本人がいた印を残そうと、嵐の中、上陸しようとして、止められた。 勝海舟は、船酔いで艦長として役に立たなかったが、国のために情報を得ようと、ナショナルな目的の行動を一つだけやろうとした。

 一方、福沢は、好奇心でアメリカに行かなきゃあと、自分のために咸臨丸に乗った。 蒸気機関などは本で知っている、本に出ていないことを身につけたい、と。 家庭生活、男と女の暮らし方、生活が大事で、肩書じゃない、幅の広さを見た。 議会では、一般の人が権利として議論をしている。 気品のある、ジェントルな、フリーダム。 品位、気品、キャラクター、天地に誓ってやましいことのない気風、格、自分の力で生きている文明の生活を見た。 人々が、男女が、対等に付き合っていることに気が付いた。 日本では、政治家が妾を囲っている、文明国じゃない。 お金の使い方も、袖の下を使ったりし、地位を持って威張る。 中国を例として、自由な学問ができない、固定していて変化ができない。 福沢は、忠孝をやめようと考えた。

 「修身要領」の普及のため、弟子たちが手弁当で地方を遊説して回った。 慶應的キャラクター、品位、気品を、地方のいろいろな所、幼稚園にまで伝えようとして、教育における成果を実感した。

 荒俣宏さんは、勝手なことをしゃべったが、慶應義塾には発言によって卒業証書をはく奪された者がいないと聞いて安心したと、講演を締めくくった。

福沢家代表挨拶、今年は福沢博之さんという方で、玄孫(やしゃご)と、福沢の子孫は合計602名、現在8代目世代までいるそうだ。 福沢の精神は、親からよりも慶應で自然に学んだ。 水球をやったが、下級生の時は、ひたすら与えられた練習をしたことが役立ち、先輩やコーチから長所を生かすこと、延ばすことを指導された。 それを自分なりに考えて、チームの力にしたのが、独立自尊の精神かと思うと話した。