嵩の入った東京高等工芸学校図案科 ― 2025/06/14 07:16
嵩は、ひそかに、漫画家か挿絵画家か小説家になりたいと思っていた。 伯父の寛は、医者になる気はないかと聞いたことがあったが、嵩は、ないと答えた。 絵の勉強ができる学校に行きたいというと、好きな道に進むのはいいが、それで食べていくのは大変だ、図案(デザイン)をやれば、将来、職業になるんじゃないか、と教えてくれた。 翌年、京都高等工芸学校(現・京都工芸繊維大学)図案科と、東京美術学校の図画師範科を受験したが、両方とも不合格だった。 伯父に浪人を許してもらって翌年、京都高等工芸学校図案科と、東京高等工芸学校図案科(現・千葉大学工学部)を受けることにした。 どちらも修業年限三年の、官立の旧制専門学校である。 東京高等工芸学校図案科の定員は20名、競争率は9倍だったが、嵩は合格することができた。
昭和12(1937)年4月、18歳になった嵩は上京し、東京高等工芸学校に入学した。 この学校には嵩の図案科のほかに、印刷、金属、木材、精密機械、彫刻、写真の各科があった。 一科につき20名くらいの生徒数、彫刻と写真は5名ほどと、専門学校としても規模が小さく、学生全員が兄弟のようだった。 木材科の同期には、のちに挿絵画家として一家を成す風間完がいた。
校舎は山手線の田町駅から歩いて一分、東京市芝区新芝町(現在の港区芝浦3丁目)、木造二階建てのクラシックな洋風建築で、はじめて訪れたとき、嵩はその美しさに見とれた。 だが、嵩の愛したこの校舎は、昭和20(1945)年5月の空襲で焼け落ちることになる。
東京高等工芸学校は、大正デモクラシーの気風が残る自由な校風で、教授といえどもあれこれ指示することはない、学生は個人として最大限に尊重された。 制服は背広にソフト帽、ワイシャツは必ずしも白でなくてもよく、背広も黒でも紺でもよかった。 ネクタイは、青地に七つの科を意味する七色の虹が斜めに入っているものだった。 制服ひとつにも、学生は紳士であり、自由であるという学校の考え方があらわれていた。
図案科の杉山豊桔(とよき)教授は、入学したての学生たちにこう言ったという。 「机にかじりついているばかりいるようではろくな作品はできない。幸いなことにここは銀座に近い。一日に一度は銀座を歩きなさい。そこで吸収するものは、学校で習うものよりずっと栄養になる」
5歳の嵩と、3歳の弟・千尋 ― 2025/06/13 07:22
父・柳瀬清が死んだ時、母・登喜子は30歳、嵩は5歳、弟の千尋はもうすこしで3歳になるところだった。 葬儀は広東、東京の朝日新聞社、在所村の三か所で行われた。 嵩が梅の木の下で千尋とビー玉遊びをしたのは、在所村の葬儀でのことだ。
清は筋骨たくましいスポーツマンで、テニスと水泳が得意だった。 読書家で文才があり、絵も上手かった。 登喜子に書き送った手紙には「ぼくは決して砂浜の砂の一粒ではない」「詩や文章を書くこと、絵を描くことは一生やっていく。そして必ず、自分の本を出したい」と書かれているそうだ。 思わぬ病によって若い野心は絶たれたが、文筆と絵の才能は嵩に、学業と運動能力は弟の千尋に受け継がれることになる。
父を失ったことで、幼い兄弟の運命は大きく変わった。 弟の千尋は、父の兄である寛の家に引き取られることになった。 高知県内の後免町(現・南国市後免町)で内科と小児科の開業医をしていた寛と妻のキミには子供がなく、清の生前から、千尋が養子になることが決まっていた。 嵩は、母の登喜子、祖母の鐵と高知市内で暮らすことになった。 鐵は夫に先立たれたあと、家族と折り合いが悪く、谷内家を出ていた。 母は外出がちで、あまり家にいなかった。 自活の道を見つけようと、琴、三味線、謡曲、茶の湯、生け花、洋裁、書道など、おびただしい数の習いごとをしていたのだ。 化粧が濃く、いつも香水の匂いをさせていた。 きりりとした太い眉に、大きな目、快活で、目の前にいる人とすぐうちとける性格だったが、嵩のしつけは厳しかった。 芝居や映画が好きだった母は、夜、嵩をつれて出かけることがあった。 母のまわりにはいつも何人かの男性がいて、そのことで周囲の人たちは母の悪口を言った。 だが嵩は、自分を養うために母が手に職をつけようとしていることを知っていたし、よそのお母さんよりきれいな母を自慢に思っていた。 祖母の鐵は嵩に甘く、暮らし向きは楽ではなかったが、ふたりの女性に大事にされ、嵩は世間知らずのお坊ちゃんとして育った。
学齢期を迎えた嵩は、家のすぐそばの高知市立第三小学校(後の高知市立はりまや橋小学校)に入学した。 だが、ここに通ったのは二年生の途中までだった。 母につれられて高知駅から汽車に乗り、後免町にある伯父・寛の家に行ったとき、嵩はそのままそこに置いていかれるとは思っていなかった。 奥の部屋で伯父と話していた母は、嵩にしばらくここにいるようにと言った。 おまえはからだが弱いから、伯父さんに丈夫にしてもらうのよ、水虫も治してもらいなさい、お兄ちゃんなんだから、千尋にやさしくしてね――と。 そして、帰っていく母を、千尋といっしょに見送った。 このとき嵩は、母が再婚することを知らされていなかった。 そのうち迎えに来てくれると思っていたので悲しくはなく、涙も出なかった。 よそゆきのきものを着て、白いパラソルをさした母を、きれいだと思った。
伯父の「柳瀬医院」と住宅が一緒になった建物は、当時の鉄道省(現JR)土讃線の後免駅から直線距離にして二百メートルほどのところにあり、裏手には農事試験場の畑が広がっていた。 隣は酒店で向かいが石材店、その先に製材所があった。
やなせたかし(柳瀬嵩)さんの、父と母 ― 2025/06/12 06:56
朝ドラの『あんぱん』(中園ミホ脚本)だが、梯久美子さんの『やなせたかしの生涯』を読むと、嵩の部分はかなり実際そのままに描いているが、のぶ(今田美桜)については柳瀬嵩夫人の暢(のぶ)の経歴とはだいぶ違っていることがわかる。
柳瀬嵩は、大正8(1919)年2月6日、高知県香美(かみ)郡在所(ざいしょ)村朴(ほお)ノ木(現・香美郡香北町朴ノ木)に、父・清、母・登喜子の長男として生まれた。 在所という地名は、近くの御在所山からきていて、古くから霊山とされたこの山には、壇ノ浦の戦に敗れた平家一門が、幼い安徳天皇を護って隠れ住んだという伝説がある。 柳瀬家は江戸時代からの庄屋で、あたりでも有数の旧家だったが、父の清が生まれたころには、かつての豊かさは失われていた。 清は次男で、姉、兄の寛、弟、三人の妹がいた。 寛も清も学校の成績がよく、ふたりとも名門の高知県立第一中学校(現・県立高知追手前高校)に進んだ。 その後、寛は京都府立医学専門学校(現・京都府立医科大学)で、清は東亜同文書院で学んだ。 東亜同文書院は、中国の上海にあった日本の高等教育機関で、私立の学校だったが、広くアジアで活躍する人材を育成するという目的のもと、国も出資していた。
母・登喜子も、同じ在所村の永野という集落の谷内家、豪農の大地主、豊かな家の出身だった。 三姉妹の真ん中、農作業の手伝いなどは一切せず、ぜいたくに暮らし、三人とも高知市内の高等女学校に進んでいる。 登喜子は、高知県立高知第一高等女学校(現・県立高知丸の内高校)在学中、同じ香美郡の豪商と結婚したが、短い結婚生活ののちに離別し、谷内家に戻っていた。 嵩の父と母が結婚したのは、大正7(1918)年のことで、隣同士の集落に住む、上海帰りのモダンボーイと華やかな地主の娘との結婚は、自然なことだったのだろうと思われる。 文化の面でも地元の中心的な存在だった谷内家には、中国関係の書があり、清はそれを見るために出入りしていて登喜子と知り合ったのではないかという人もいる。
清は、大正5(1916)年に東亜同文書院を卒業して日本郵船の上海支店に二年間勤務したあと、東京の講談社に移って雑誌『雄辯(ゆうべん)』の編集をしていた。 だから嵩が誕生したのは、在所村朴ノ木だったが、一家は東京府北豊島郡滝野川町(現・北区滝野川)に暮らしていた。 父・清はさらに、大正10(1921)年4月、招かれて朝日新聞の記者となる。 東亜同文書院はジャーナリストを多く輩出した学校だった。 中国語が堪能だったため、「支那部」に配属された。 この年6月に弟の千尋が生まれている。 翌大正11(1922)年10月、清は広東特派員を命じられ、単身で任地に赴き、母と嵩、千尋の三人は、在所村の母の実家で暮らすことになった。 清が赴任したころの中国は、孫文の国民党が共産党との連携を模索し、国共合作に向けて情勢が大きく動いていた時期だった。 しかし清は、赴任から一年半後の大正13(1924)年5月16日、急病で死去する、31歳の若さだった。
やなせたかしさんと梯久美子さん ― 2025/06/11 07:16
やなせたかしさんには、自身が発案し、謝礼など度外視で従事していた、利他的と表現するしかない仕事があった。 雑誌『詩とメルヘン』(1973~2003年)の刊行だ。 責任編集を務めて、読者から詩の投稿を募り、自身の選評と合わせて掲載することで、多くの才能を世に送り出した。 梯久美子さんは、小学生のとき映画『やさしいライオン』に感動し、中学生で詩集『愛する歌』に出会って、高校生になると『詩とメルヘン』に投稿するようになった。 そして大学卒業後、『詩とメルヘン』の編集者になりたい一心で北海道から上京し、発行元のサンリオに入社する。 最初に配属された社長室で辻信太郎氏の秘書の一人として働いたあと、念願かなって『詩とメルヘン』の編集部に異動になった。
編集者をしていたとき、新宿区片町にあったやなせたかしさんの仕事場で、『詩とメルヘン』1986年6月号「編集前記」のこんな原稿を受け取った。 アンパンマンがアニメ化される二年前で、やなせさんは67歳だった。 そこには『やなせたかしの生涯』を書き終えて、改めて感じる、やなせさんの仕事の根本にあったものがあらわれていた。
疲れたひとをやすませたい
さびしいひとをなぐさめたい
悲しいひとをほほえませたい
でも
どうやって
どうすれば
そんな大それたことができるだろう
自分でさえもボロボロで
もうくじけそうと思うのに
まして他人のことにまで
お節介ができるはずがない
しかし 私は何かしたい
ひとの心をよろこばせたい
なぜなら 打ち沈みがちな人生で
それが 私のよろこびだから
ところで あなたは……。
三越の包装紙とショッピングバッグ ― 2025/06/10 07:01
朝ドラ『あんぱん』のモデル、やなせたかしさんが、三越の包装紙の制作にかかわったと聞いて、友禅の人間国宝、森口邦彦さんが朝日新聞の「語る 人生の贈りもの」で三越の包装紙について語っていたのを思い出した。 私はそれを読んだ時、白地に赤い抽象形を散らした包装紙を思い浮かべたのだったが、結論を先に言えば、森口邦彦さんが描いたのは、矢形の灰色と四角い赤の幾何学文様で、たわわに実るリンゴを表現したというショッピングバッグの方だったのであった。
梯久美子さんの『やなせたかしの生涯 アンパンマンとぼく』(文春文庫)によると、柳瀬嵩さんは、1947(昭和22)年に日本橋三越で開かれた戦後第一回の日本広告展に応募した三点が入選し、一点はデパートの部の部会賞をもらった。 三越はちょうど宣伝部員を募集していたので、試験を受けて合格、10月から働くことになった。
宣伝部では、三越劇場で上演される文学座のポスターを制作したりしていたが、三越で手がけた仕事のうち、現在まで使われているのが、白地に赤の抽象形を散らした包装紙だった。 デザインは、洋画界の花形だった猪熊弦一郎に依頼した。 締切りの日に田園調布の自宅まで受け取りに行って、手渡されたのは、赤い紙を切って白い紙の上に置き、テープで仮留めしたシンプルな原画だった。 巻くことができないので広げたまま、おしいただくように捧げ持ってタクシーで社に戻った。 「MITSUKOSHIという字はそっちで書いてね。場所は指定してあるから」と猪熊に言われたので、文字の部分は嵩さんが書いた。 こうして、それまで日本の百貨店にはなかったモダンで斬新な包装紙ができあがった。
三越は、この包装紙を「華ひらく」1950年 猪熊弦一郎、ショッピングバッグを「実り」2014年森口邦彦、と名付けている。
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