やなせたかしさんと梯久美子さん ― 2025/06/11 07:16
やなせたかしさんには、自身が発案し、謝礼など度外視で従事していた、利他的と表現するしかない仕事があった。 雑誌『詩とメルヘン』(1973~2003年)の刊行だ。 責任編集を務めて、読者から詩の投稿を募り、自身の選評と合わせて掲載することで、多くの才能を世に送り出した。 梯久美子さんは、小学生のとき映画『やさしいライオン』に感動し、中学生で詩集『愛する歌』に出会って、高校生になると『詩とメルヘン』に投稿するようになった。 そして大学卒業後、『詩とメルヘン』の編集者になりたい一心で北海道から上京し、発行元のサンリオに入社する。 最初に配属された社長室で辻信太郎氏の秘書の一人として働いたあと、念願かなって『詩とメルヘン』の編集部に異動になった。
編集者をしていたとき、新宿区片町にあったやなせたかしさんの仕事場で、『詩とメルヘン』1986年6月号「編集前記」のこんな原稿を受け取った。 アンパンマンがアニメ化される二年前で、やなせさんは67歳だった。 そこには『やなせたかしの生涯』を書き終えて、改めて感じる、やなせさんの仕事の根本にあったものがあらわれていた。
疲れたひとをやすませたい
さびしいひとをなぐさめたい
悲しいひとをほほえませたい
でも
どうやって
どうすれば
そんな大それたことができるだろう
自分でさえもボロボロで
もうくじけそうと思うのに
まして他人のことにまで
お節介ができるはずがない
しかし 私は何かしたい
ひとの心をよろこばせたい
なぜなら 打ち沈みがちな人生で
それが 私のよろこびだから
ところで あなたは……。
三越の包装紙とショッピングバッグ ― 2025/06/10 07:01
朝ドラ『あんぱん』のモデル、やなせたかしさんが、三越の包装紙の制作にかかわったと聞いて、友禅の人間国宝、森口邦彦さんが朝日新聞の「語る 人生の贈りもの」で三越の包装紙について語っていたのを思い出した。 私はそれを読んだ時、白地に赤い抽象形を散らした包装紙を思い浮かべたのだったが、結論を先に言えば、森口邦彦さんが描いたのは、矢形の灰色と四角い赤の幾何学文様で、たわわに実るリンゴを表現したというショッピングバッグの方だったのであった。
梯久美子さんの『やなせたかしの生涯 アンパンマンとぼく』(文春文庫)によると、柳瀬嵩さんは、1947(昭和22)年に日本橋三越で開かれた戦後第一回の日本広告展に応募した三点が入選し、一点はデパートの部の部会賞をもらった。 三越はちょうど宣伝部員を募集していたので、試験を受けて合格、10月から働くことになった。
宣伝部では、三越劇場で上演される文学座のポスターを制作したりしていたが、三越で手がけた仕事のうち、現在まで使われているのが、白地に赤の抽象形を散らした包装紙だった。 デザインは、洋画界の花形だった猪熊弦一郎に依頼した。 締切りの日に田園調布の自宅まで受け取りに行って、手渡されたのは、赤い紙を切って白い紙の上に置き、テープで仮留めしたシンプルな原画だった。 巻くことができないので広げたまま、おしいただくように捧げ持ってタクシーで社に戻った。 「MITSUKOSHIという字はそっちで書いてね。場所は指定してあるから」と猪熊に言われたので、文字の部分は嵩さんが書いた。 こうして、それまで日本の百貨店にはなかったモダンで斬新な包装紙ができあがった。
三越は、この包装紙を「華ひらく」1950年 猪熊弦一郎、ショッピングバッグを「実り」2014年森口邦彦、と名付けている。
卒業61年目の同期会 ― 2025/06/09 06:57
昨日書いた西岡秀雄先生にご指導いただいた文化地理研究会の同期の会が、5日に東京會館のロッシーニで開かれた。 1964(昭和39)年の卒業なので「六四の会(むしのかい)」、毎年企画してくれる学生時代の代表加藤隆康さんのおかげである。 尾張一宮や箱根強羅からも駆け付けてくれ、卒業61年の爺さん婆さん14名の集合。 85歳から83歳まで、女性8名、男性6名は、健康寿命を表しているのか。 女子学生の多いクラブだったゆえの、おそらく稀な同期会だろう。 ここ数年で男性が何人か亡くなり、この一年では女性一人、男性一人が亡くなった。 来年もまた、元気で集まろうということになる。
私は、毎日ブログを書きつづけていることや、三田あるこう会に参加しているが『三田評論』「三田会だより」の名前を見て元気をもらっているという人がいるので、毎月ヘロヘロ付いて歩いている話をした。
ロッシーニのコースは、事前にMain を肉か魚か選んであった。 テレビ草創期に、『事件記者』というドラマがあって、「八田老人」が登場した。 われわれは、その「八田老人」よりも、だいぶ年上になっているのだろう。 閑居馬場老人、聞いたこともないような、珍しいものを食べたので、メニューを書いておく。 Appetizer「天使の海老のマリネ レモン塩麹 そら豆のムース ココナッツ風味」 Soup「ヴィシソワーズスープ」 Main「岩中豚ロース肉の香草焼き ショロンソース」 Dessert「ヴェリーヌ」 Coffee or Tea「コーヒー」。 西岡先生・雑学の不出来な弟子は、いくつか調べてみる。
「天使の海老」…世界有数の美しい島ニューカレドニアで、マングローブ林に囲まれた絶好の養殖環境下、100%自然由来の餌で育てられた、アミノ酸含有量の多い旨味と甘味の海老。 「岩中豚」…いわちゅうぶた、岩手県産のブランド豚、東京食肉市場銘柄豚協会指定第一号、岩手中央畜産株式会社の生産。 「ショロンソース」…ベアルネーズソース(澄ましバターとエストラゴン、エシャロット、卵黄、セルフィーユ(セリ科のハーブ、チャービル)と酢をとろ火で煮詰めた)にトマトピューレを加えたもの。フランスのシェフ、ショロン氏の名を冠す。 「ヴェリーヌ」…フランス語でグラスデサートを意味する言葉。 そういえば、季節柄、「ヴィシソワーズスープ」が氷の入った器の上にグラスを重ねるなど、グラスを使った料理が多かった。
帰宅して、「料理はどうだった?」と聞かれ、「まあ、まあ」と答えたが、これを書いている内に、美味しかったような気がしてきた。
中世、浪人を「悪党」に変えた気候変動 ― 2025/06/08 06:49
5月27日から「トクヴィル分権論と福沢」を書いた宇野重規さんから、(4月)谷口将紀さんに代わった朝日新聞の「論壇時評」だが、その準備のために論壇委員会が開かれている。 その委員が推薦する論考を選んで、「論壇Bookmark」が掲載される。 5月23日は、論壇委員の鶴見太郎東京大学准教授(歴史・国際)が推薦した、国立歴史民俗博物館助教の土山祐之さんの「13世紀における浪人の変容と気候変動 領主・村落とのかかわりから」(歴史学研究4月号)だった。
気候変動については、学生時代に文化地理研究会でご指導いただいたのが、『寒暖の歴史 気候700年周期説』の西岡秀雄先生だったから、興味がある。(<小人閑居日記>2018.12.11~16.、2023.7.22.~27.参照)
土山祐之さんの論考は、中世13世紀の気候変動が、浪人を「悪党」に変えた、というのである。 日本史には、公的な課役を負わない「浪人」(浮浪人)や、既存の支配者に従わない「悪党」と呼ばれる人々が存在した。 だが、13世紀までの浪人は、農地を開墾する労働力として村に招き入られる存在だった。 そんな関係性が変化し、浪人が村から排除され、鎌倉幕府からは悪党予備軍とみなされるようになる。
その背景には、当時の気候変動とそれに伴う飢饉があると、土山祐之さんは指摘する。 「雨が降りすぎれば洪水。降らなければ日照り。どちらにせよ生産不順で食糧不足となり、村落と浪人が山野河海の恵みを奪い合う事態が起きました」。 村や山野河海から浪人を排除する過程で、村は排他性を強め、自治の性格の強い「惣村(そうそん)」へと変化していくのではないか、というのが土山さんの見方だ。
こうした見方の裏付けになったのが、中塚武名古屋大学教授(古気候学)らの研究だった。 木の年輪に含まれる酸素のわずかな違い(年輪酸素同位体比)を分析し、過去数千年にわたる夏の気温や降水量の変化を、年単位で高精度で復元できるというもの。 「世界をリードする研究」(土山さん)だという。
土山さんは、この研究データと史料の読解とを組み合わせて、気候変動を機に村落が排他性を帯び、村落や山野河海から締め出された浪人が悪党になっていくと結論づけた、のだそうだ。 研究は現在を読み解く手がかりにもなる。 異常気象が一因なら、昨年来のコメ不足は容易に解決しない可能性もあり、移民・難民問題も背景の一つに気候変動があり、今後も深刻になる恐れがある、など。
西岡秀雄先生も、『寒暖の歴史 気候700年周期説』で、木の年輪を重要な研究材料にした。 近年、法隆寺の金堂や五重塔が天智9(670)年の火災の以前に建てられたかどうかという論争がある。 奈良文化財研究所の光谷拓実、大河内隆之両氏の「年輪年代法による法隆寺西院伽藍の総合的年代調査」(『仏教芸術』第308号、2010年1月)という研究がある。 両氏は、1950年代に早くも西岡秀雄先生が法隆寺五重塔心柱や夢殿桁材の年輪計測によって再建説を否定した先駆的研究をしている事実を、特筆している。
岡本隆司著『倭寇とは何か』、中国揺るがし600年 ― 2025/06/07 06:58
最近読んだ新聞記事で面白かったのは、歴史学者の岡本隆司さんの近著『倭寇とは何か』中国を揺さぶる「海賊」の正体(新潮選書)についての、5月25日の朝日新聞だった。
歴史の教科書の一般的説明だと、倭寇は東アジアで略奪や密貿易を行った海賊で、その担い手は、14世紀後半がピークの前期倭寇では主に日本列島の人々だったのに対し、16世紀の後期倭寇では、中国大陸出身者を中心に日本やポルトガルなどの様々な人がいた、というものだった。 実際は、単なる海賊ではなく、その正体は、権力・当局に服さず、国境を越えて活動する民間商人らの「ネットワーク」だった。
前期倭寇の時代、明の政権は、「日本からの脅威」とみなし、貿易や渡航を制限する海禁政策を取る一方で、日中双方が管理する勘合貿易をおこなって倭寇を沈静化させる。 ところが後期倭寇の時代になると、長江下流域の江南デルタの経済的発展に加えて、大航海時代が到来する。 日本の石見銀山やアメリカ大陸でとれた銀が、中国や、ポルトガル、スペインなど「南蛮」との交易を支える。 海を越えて結びついた列島人や大陸人、南蛮人・紅毛人たちが、国家による国境や貿易の管理を超えた「境界人」として活躍するのだ。 つまり倭寇は、日本人か中国人かを問うよりも、沿海に出て商業を営む雑多な人々がアジアの海を股にかけて活動したという「状況」であり、「現象」として捉えるべきだと、岡本隆司さんは言う。
17世紀に入ると、日本は海禁・鎖国への道を歩み、倭寇は消えたとされるが、その実体であった華人(中国系移民)の貿易ネットワークは、中華の正統な秩序(華夷(かい)秩序)の外で、異国と自由に結びつき、越境的に動く民間の運動体として、グローバル化でさらに発達していく。
そんな倭寇の末裔たちを抱え込むのか、抑え込むのか。 中国は今に至る600年もの間、ある意味この「倭寇」的存在と向き合ってきたと、岡本隆司さんは解釈できるとする。
清(1644~1912年)の時代に入ると、シナ海貿易を大規模展開していた中国人の父と日本人の母を持ち、台湾を占拠した鄭成功らの海上勢力を武力で抑えつけた時期もあるが、その後は異国と結びつこうとする「倭寇」を政権側に取り込むため「互市」(貿易開放)政策へと転じた。
19世紀以降のアヘン戦争や日清戦争といった大英帝国や日本の侵略も、中国側からは「倭寇」の流れに位置づけられるだろう、とする。 英国も日本も中央(北京)の統制を受けないアヘン流通や作物生産の拠点を求め、香港や台湾を手に入れようとしたわけだから。
では、習近平政権は「倭寇」とどう向き合っているのか。 習氏はビジネスを通じて外国と過度に結びつく勢力の出現を体制を揺るがす火だねと見なし、経済の過熱を抑えて国家的統制を強める方向に舵をきっているようにみえる。 「一国二制度」のはずの香港を弾圧し、台湾にも「一つの中国」を強要し軍事的に威圧する。 どちらも他国と結びついて行う自由な経済・政治活動を抑えつけるもので、「倭寇」対策のあらわれにみえる。
結果として、富裕層を中心に日本などへ移住する中国人も急増している。 「倭寇」を支配下に置こうとする習氏の試みは、さらに新たな「倭寇」を生み出していくかもしれない、というのだ。
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