ビルブローカー奥山春枝を支えたもの2010/12/19 08:23

 奥山春枝は、旧上山藩士としての叔父の活動によるコネで入ったらしい逓信 省鉄道局が、すぐにいやになり悶々とした日を送り、三年で日本銀行に転職(明 治30年)、名古屋支店の開店に当る。 それまで公金を扱っていた三井銀行名 古屋支店との本金庫受け渡しを通じて、三井支店長の平賀敏(慶應先輩)、その 子分・杉野喜精(きせい)との親交が生れる。 平賀の懇切な指導を受け、以 後その出処進退に関して常に平賀の意見に従う。 義侠心に富む杉野とは、死 に至るまでの親交を結んだ。 奥山は、日銀から民間の愛知銀行本店、鴻池銀 行名古屋支店を経て、明治36年平賀の薦めで大阪の藤本ビルブローカーに転 じ、調査を担当、高い評価を受ける。

 ビルブローカーbill-broker…「手形仲買人。金融機関・商事会社・証券会社・ 事業会社などの間に介在して、手形の割引、買入、コールの取引の仲介を業と するもの。」(『広辞苑』)

 明治30年代初頭、外国の金融事情を視察した銀行家たち、三井の米山梅吉、 横浜正金の中井芳楠、日銀の井上準之助らによって、ビルブローカー業の日本 への紹介が行われた。 藤本ビルブローカーは、これらの人物に接触し、情報 を蒐集した大阪の実業家(もとは米穀商)二代目藤本清兵衛が起した。 藤本 が銀行、ビルブローカー業に信託業務を併せた金融会社の設立という経営拡大 策を採ったのに、奥山はあくまで反対し三年で辞職する。 一年間の浪人生活 ののち、明治40年大阪商業会議所に勤務(この時代に藤本ビルブローカー銀 行は経営破綻。平賀による再建。その後大和証券へ発展。)、42年5月、年来の 宿願だった「匿名組合ビル・ブローカー奥山商店」を創業する。

 時代は、日露戦争を契機とする重工業における産業革命、藤本の破綻で大阪 に同業は一軒もなく、やがて第一次世界大戦、関東大震災(関西にとってはチ ャンス)と、営業規模は拡大し、相当の利益も出たが、配当は低く抑えて、そ れを優良な有価証券として社内に蓄積する、地道で堅実な経営方針を貫いた。  慶應義塾を中心とした人脈による経営上の援助も大きかった。 門野幾之進、 平賀敏、池田成彬、米山梅吉、田辺貫一、伊沢良立、杉野喜精。 1935(昭和 10)年に亡くなっている。

 勃興期の日本資本主義に身を処し、日本におけるビルブローカーの草分けの 一人となった奥山春枝。 故郷での就職待機中に福沢の『実業論』を読んだと いう。 福沢は「文明の教育を経た後進の士流学者が歩む二つの途」として、 北条早雲型の投機も辞さない冒険的精神を持ったパイオニアと、「諸豪大家の人 物を見定めて主取りする」木下藤吉郎型を挙げた。 明治20年代半ば、確立 しつつある資本主義を眼前にして、福沢は(明治最初の10年には理想の実業 人像としていた)北条早雲型の企業家の前途にある種の危惧を懐いたのか、木 下藤吉郎型の道の説明に比重を置いている。 戦前型資本主義の確立期に、あ えて早雲型の起業家を目指した奥山、事業の拡大を図らず慎重で堅実な経営方 針を採ることによって成功した「文明の教育を経た士流学者」として実業の世 界に身を処した生涯であった。 それは慶應義塾に学び、福沢の『実業論』に 触れたことによると、坂井達朗さんはまとめた。