岩崎久弥・叔父弥之助と馬場辰猪2010/12/26 06:41

 今年の大河ドラマ『龍馬伝』、終わってみれば、坂本龍馬(福山雅治)と岩崎 弥太郎(香川照之)の物語だった。 三菱関係者は、最初から岩崎弥太郎の描 き方にご不満のようで、福澤諭吉協会のセミナーでお会いしたある三菱OBは、 会終了後のトイレまで私に付いて来て、不平の続きを言っていた。 18日の朝 日新聞夕刊「はみ出し歴史ファイル」岩崎弥太郎の、歴史研究家・河合敦さん によれば、弥太郎と龍馬は幼なじみどころか、記録では二人の出会いは慶應3 (1867)年春、龍馬が暗殺されるわずか数か月前のことだという。 ただ、す ぐに肝胆相照らす仲になったようで、酒を酌み交わして心事を語り合ったとい う記述が、弥太郎の日記に何度か登場するそうだ。

 着たばかりの『福澤諭吉年鑑37(2010)』(福澤諭吉協会)に、原徳三さん の「馬場辰猪墓碑建立顛末―岩崎弥之助宛岩崎久弥書簡―」という史料紹介が 載っていた。 岩崎久弥は弥太郎の長男、慶應義塾に学び、弥太郎が三菱商業 学校(後に明治義塾と改称)をつくると、転校し、そこで馬場辰猪の講義を受 けていた。 久弥は明治19(1886)年5月、21歳の時アメリカに留学した。  その前年2月に弥太郎は死に、三菱は二代目社長である弟弥之助(久弥からは 叔父)の時代になっていた。 留学中の久弥は、間断なく叔父の弥之助に手紙 を書き、勉学修行の状況を報告し、資金支出の認可を仰いだ。 久弥はアメリ カで英語を修得し、明治21年の夏休みに欧州旅行をした後、9月にフィラデル フィアのペンシルヴァニア大学に入学した。

 馬場辰猪はそれより先、明治19年6月に爆発物取締規則違反容疑の無罪判 決を受けた後、渡米してニューヨークで、明治20年3月にはフィラデルフィ アに拠点を移して、活動していた。 久弥が欧州から帰ってみると、馬場辰猪 が大病を発して、療養の費用にもこと欠き、満足な食事もしておらず、下宿屋 の一室に籠って衰弱死を待つのみという絶望的な状況にあった。 久弥の弥之 助への報告では、即刻入院することを勧め、養生の費用一切を引き受けて、9 月21日ペンシルヴァニア大学に入院させた。 入院後、小康を得たが、11月 1日に亡くなった。 39歳だった。 入院の費用、葬儀から、「大日本馬場辰 猪之墓」の墓碑まで、多額の費用を久弥が負担し、恐縮して弥之助へ認可を求 めている。

 原徳三さんは、日本政府の馬場辰猪に対する厳しい眼差しを弥之助と久弥が 感じていなかった筈はなかったと言い、それを押して叔父に指示を仰ぎ、許可 を得ての久弥の行動に、弥之助と久弥の馬場辰猪への深い哀惜の思いと、久弥 の敬愛する恩師への情熱のほとばしりを見ている。