東京遷都と皇大神宮遥拝殿 ― 2014/06/24 06:19
15日の朝日新聞読書欄で、松山恵(めぐみ)さんの『江戸・東京の都市史― 近代移行期の都市・建築・社会』(東京大学出版会)を、政治思想史の原武史明 治学院大学教授が書評で取り上げていた。 松山恵さんは75年生れの明治大 学文学部専任講師だそうだ。 明治維新で東京遷都を正式に宣言したことは一 度もなく、東京はなし崩し的に「帝都」になっていったという。 では、いか にして東京は近代国家の首都へと改造されてゆくのか。 それを空間からとら える本書の視点が重要で、見出しは「地図や図面からあぶり出す歴史」。
明治初年の東京の都市空間には「郭内」と「郭外」という二つの区域があっ た。 武家地が新政府に収用された「郭内」が、実質的な遷都の場となり、そ の中心には皇城があった。 しかし、すべての官庁を皇城に集約することはで きず、太政官と宮内省以外は郭内で移動を繰り返した。 その一方で、後の宮 中三殿に相当する賢所は維新直後から皇城につくられており、現在の皇居の基 礎が早くから固まっていたことがわかる、のだそうだ。
原武史さんが、もう一つ面白かったというのは、1880(明治13)年に落成 した皇大神宮遥拝殿に関する考察で、当時の絵図や図面を通して、この遥拝殿 が伊勢神宮を体現しつつ、人々の天皇に対する崇敬を高めるための建築物とな ったことを解き明かしていることだ、と言う。 当時の神道界は、伊勢神宮を 中心とする伊勢派と、出雲大社を中心とする出雲派の間で、オオクニヌシ(大 国主神)の神格をめぐる祭神論争が展開されていたが、伊勢派が勝利をおさめ た背景として、こうした建築物を東京に建てることで自らを神道界の中心と認 知させるイメージ戦略があったとの分析に、原さんは感心している。 松山恵 さんは、遥拝殿が造営される前の地図から、当時の大蔵卿、大隈重信の名前を 発見し、伊勢派の計画には、都市改造を目指す新政府が加担していたことが判 明したとしているそうだ。
私は、「皇大神宮遥拝殿」なるものの存在も、その場所も知らなかった。 ネ ットで検索すると、現在、千代田区富士見2丁目にある「東京大神宮」に、引 き継がれていることがわかった。 その歴史は、明治5(1872)年に開設され た神宮司庁東京出張所(伊勢神宮の事務機関である神宮司庁と、東京の教部省 との連絡のための出張所)、および、翌年その構内に開設された東京神宮教会(伊 勢神宮の教導機関である神宮教院の東京支部)の両所にあった神殿を継承して、 明治13(1880)年4月17日、有楽町の大隈重信邸跡に落成した「皇大神宮遥 拝殿」が、「東京大神宮」の起源である。 これは、当時の明治政府が目指して いた祭政一致・大教宣布の一環として作られたものであった、とある。
明治13年の大隈重信といえば、「明治14年の政変」の直前ではないか。 進 歩派の大隈が、祭政一致・大教宣布に加担したのだろうか。 興味と疑問は、 広がっていく。
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