神式の結婚式、芝居茶屋<等々力短信 第1060号 2014.6.25.>2014/06/25 04:42

 実は、司馬遼太郎さんに手紙を書いたことがあった。 返事は、ついに来な かった。 それを思い出したのは、15日の朝日新聞読書欄で、原武史明治学院 大学教授が松山恵(めぐみ)さんの『江戸・東京の都市史―近代移行期の都市・ 建築・社会』(東京大学出版会)を評した中に、「皇大神宮遥拝殿」が出てきた からである。 皇大神宮遥拝殿は、明治13(1880)年4月に政府が目指して いた祭政一致・大教宣布の一環として、東京に建てられたというが、私はその 存在も場所も知らなかった。 場所は有楽町の大隈重信邸跡だった。 大隈の 明治13年といえば、「明治14年の政変」の直前である。 進歩派の大隈が、 祭政一致・大教宣布に加担したのか、疑問が残り興味をそそられるけれど、司 馬遼太郎さんへの手紙は、もちろんその件ではない。

 司馬さんとドナルド・キーンさんの対談による『世界のなかの日本―十六世 紀まで遡って見る』(中央公論社・1992年)で、「伝統」はそんなに古いもので はなく、数十年でできあがることを読んだ。 司馬さんは、その一例に神式の 結婚式を挙げ、それはせいぜい大正時代からで、神主さんがキリスト教の結婚 式を見て、われわれもあれをやろうということになった。 それ以前は、むろ ん江戸時代も、結婚式は男の人の家のお座敷でやり、宗教色はなく、三々九度 があるだけだった。 三々九度は宗教ではなく、神主も来なかった、と言って いる。 そのへんは落語に出てくるので、よくわかる。

 「皇大神宮遥拝殿」を調べると、現在、千代田区富士見にある東京大神宮に 継承されている。 明治15年の明治政府の方針転換で、神社と宗教活動を分 離することになり、皇大神宮遥拝殿は神宮教院に属し、大神宮祠と改称(一般 には所在地から日比谷大神宮と呼ばれた)、さらに明治32年神宮奉斎会本院と 改称した。 この神宮奉斎会時代、教化事業として神前結婚式の創始と普及活 動を行う。 それは明治33(1900)年5月に宮中三殿で行われた大正天皇と 貞明皇后の結婚の儀を基本にして、創始された。

 私の手紙だが、司馬さんが「(明治20年頃)東京には芝居茶屋はなかった」 と発言(62頁)していることについてだった。 東京の芝居茶屋は、関東大震 災で劇場が新建築になるまで続いていたのではないか、と。 安政2(1855) 年生れの、今泉みね著『名ごりの夢』(平凡社東洋文庫)の中に、「あのころの 芝居見物」という章がある。 猿若町に三丁目三座があり、築地から船で芝居 見物にくりこむと、茶屋から迎えが来ている。 茶屋には粋な男女が、夏なら 着物も素肌に着て、サアッと洗い上げたといった感じのする人たちが、居並ん でいんぎんに一同を迎えて奥座敷か二階に案内する。 ここでしばらく休んで いると、すっかり「芝や気分」になるというのだった。

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