「福沢こそ“日本のスミス”ではないか」 ― 2016/12/21 06:30
坂本達哉教授の講演「アダム・スミスと福澤諭吉―<共感>と<独立自尊> のあいだ」を、詳細なレジメを参考に紹介してきたが、「結びにかえて」という 結論部分は、こうである。
・スミスの文明社会論は、『国富論』の経済学(利己心と競争のシステム)の 基礎であると同時に、「共感=同胞感情」を中核とする『道徳感情論』を土台と するものであった。
・福沢の文明論もまた、「独立自尊」の個人主義の根底であるとともに、「人 間交際」の人間観・社会観に根ざすものでもあった。
・スミスの「公平な観察者」、福沢の「独立自尊」はともに非利己的な人間論、 道徳論の上に、文明社会における「他者」との緊張ある交流によってささえら れた「個人の自律」の思想であった。
・同時に、スミスと福沢が生きた時代と社会の歴史段階の相違に対応して、 個人の独立と国の独立の関係は、微妙に異なる論理によって展開された。スミ スは当時の国民的偏見(偏狭なナショナリズム)と闘い、福沢は「無気無力」 の日本的精神風土と闘った。
・この思想の担い手は、両者にとって、勃興する中下層であったが、同時に、 その限界を見極め、これを批判的に超越する「道徳哲学者」(スミス)や「学者」 (福沢)の批判的視点が保持されていた。グラスゴウ大学や慶應義塾における 彼らの学生たちがその社会的担い手となった。
・スミスと福沢に共通する個人主義を超える個人主義とも言える人間観、社 会観、道徳論は、18-19世紀の西欧リベラリズムの根底をなし、トクヴィルを へて、少なくともJ.S.ミルの『自由論』(「多数の専制」に抗する「個性」)の 思想にまで流れ込む、西欧文明社会思想の「執拗低音」とも言える伝統であっ た。
・福沢こそ、真の意味において<日本のスミス>(田口卯吉がそう言われて いるが…)だったのではないか。
坂本達哉教授の結論を、まるまる引用させて頂いたのは、私にとってこの講 演がたいへんに勉強になったからであった。 最初に書いたように半世紀前に 経済学部で学んだにもかかわらず、アダム・スミスは『国富論』も読んでいな かった。 福沢は、主に耳学問で、長くかじってきた。 そんな私だけれど、 慶應の経済学と福沢が、マードックが漱石に言った「モラル・バックボーン」 訳して「徳義的脊髄」のようなものになっているらしい有難さを、坂本達哉教 授の講演によって感じさせてもらったのであった。
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