「帝室は政治社外のものなり」2016/12/25 06:26

 橋本五郎さんの講演、(3)東宮の御教育参与。 これについては、神吉創二 著『伝記 小泉信三』(慶應義塾大学出版会)に詳しい、とした。(この本に関連 して、私もこの日記で昨年12月10日から16日に、本のことと小泉信三さん について、いろいろと書いた。) 橋本さんは、(3)に関して、「スポーツによ る鍛錬」「福沢諭吉の『帝室論』をご進講」「皇太子殿下のご成婚」の項目だけ を挙げた。 8月の天皇の退位に関するご発言は、非常に難しい問題を含んで いるとして、10日土曜日の読売新聞「五郎ワールド」に、福沢の『帝室論』「帝 室は政治社外のものなり」を引いて書く、と述べた。

 そこで、読売新聞「五郎ワールド」を読む。 明治20(1887)年3月20日、 内閣総理大臣伊藤博文は、皇室典範を熟議するための会議を高輪の自邸で開き、 柳原前光賞勲局総裁の起草した皇室典範草案を、井上毅、伊東巳代治と協議し た。 論点の一つが天皇の「譲位」の問題だった。 坂本一登国学院大教授の 『伊藤博文と明治国家形成』(講談社学術文庫)に詳しく描かれているそうだが、 柳原の草案も井上毅も、天皇の意思による譲位に賛成だったけれど、伊藤は、 君位を君主の個人的な意思にゆだねてはならないという考えから、天皇の譲位 それ自体に強く反対し、断固として譲位を規定した「本条不用に付削除すべし」 と決済した。 坂本教授は、皇室を政治から分離自立させ、天皇の個人的な意 思から分離すべく制度化しようとしたとみる。 それが日本文化と歴史の象徴 としての皇室の安定にとって必要だった。 と同時に、近代国家を運営してい く上でも、宮中は政治から切り離されるべきだと伊藤は考えた。 というのも 天皇が政治的に利用された過去が幾たびもあったからだ、と橋本さんは書く。

 ここで橋本さんは、福沢諭吉の『帝室論』(明治15年)に言及する。 『帝 室論』は「帝室は政治社外のものなり」で始まる。 政治の争いは火の如く、 水の如く、盛夏の如く、厳冬の如きものだが、天皇は違う。 「帝室は独り万 年の春にして、人民これを仰げば悠然として和気を催ふす可(べ)し」 帝室 に政治的中立性、精神的統合機能を求め、象徴天皇制を先取りしているといえ る、と。

 橋本五郎さんは、書く。 「天皇の退位をめぐっては、国民の多くが、ご高 齢と「公務」の大変さを思い、肯定的なようである。しかし、退位を認めると して一代限りの特別立法か皇室典範の改正なのか。退位の基準は年齢なのか、 ご病気の程度なのか。天皇ご自身の意思なのか。政治的背景はないのか。」「克 服すべき課題はあまりに多い。」

 「その際の前提として考えるべきは、天皇制の本質は何か、なぜ「至高の権 威」として永続し得たかだろう。それは政治の外にあろうとしたことであり、 できるだけ天皇の個人的な意思から皇室を分離させようとした伊藤博文の考え は決して過去のものではないと思うのである。」と。

夏目漱石最後の恋<等々力短信 第1090号 2016.12.25.>2016/12/25 06:27

 襖一枚へだてて、宮沢りえが寝ているのである。 悶々の夏目漱石(豊川悦 司)48歳、磯田多佳(宮沢りえ)36歳。 NHKドラマ『漱石悶々』「夏目漱 石最後の恋、京都祇園の二十九日間」を見た(脚本・藤本有紀、演出・源孝志)。  大正4(1915)年3月19日~4月16日。 祇園の茶屋「大友」の女将、多佳 は文芸芸妓として知られ、尾崎紅葉や谷崎潤一郎、吉井勇も馴染み客、以前は 浅井忠意匠の陶器を商う店「九雲堂」をやっていた。 姉のおさだは、大石忌 を催す「一力」(祇園万亭)の女将だ。

 漱石と多佳、津田青楓とその兄・西川一草亭の四人のいる座敷に、漱石ファ ンだという芸者の金之助(鈴木杏)と君が、賑やかに入って来る。 君の唄と 三味線で、金之助が「追分節」を踊る。 唄が自然で実に巧い、と思ったら君 は尾上紫(ゆかり)、尾上流家元の長女だそうだ。 その後、宮沢りえが「黒髪」 を色っぽく踊る。 「黒髪の結ぼうれたる思いには 溶けて寝た夜の枕とて ひ とり寝る夜の仇枕…」 踊りのことはわからないが、京舞指導・井上八千代と 出たから、かなりの稽古をしたのだろう。

 晴れたら北野天神へ梅見に行く約束をしていた多佳に電話をすると、宇治へ 遊びに行っていた。 その金持の客、加賀正太郎に座敷で山崎の別荘の命名を 頼まれ、仏国寺桃陽園で聞いた鳥の鳴き声「チンチラデンキ皿持てこ汁のまし ょ」ではどうかと言う。

 『漱石全集』第十五巻に、磯田多佳、金之助の梅垣きぬ、君の野村きみ、加 賀正太郎、津田青楓兄弟宛の書簡がある。 当時刊行した『硝子戸の中』(私は 最近まで「うち」を「なか」と読んでいた)を、皆にお礼に送っている。 多 佳宛「滞京中は色々御世話になりましたことにあなたの宅で寐てゐたのは甚だ 恐縮ですあゝいう商賣をしてゐる所で寐てゐられては嘸迷惑でしたらう」「一中 節や河東節は大變面白う御座いました是も木屋町へ偶然宿をとつた御蔭かも知 れません」。 きぬ宛「打ち明け話も感心して聴きましたゴリ押しをなさいゴリ 押しに限ります」。 多佳宛「あゝいふ無責任な事をすると決していゝむくひは 來ないものと思つてお出で。本がこないと云つておこるより僕の方がおこつて ゐると思ふのが順序ですよ。」「君の字はよみにくゝて困る。それに候文でいや に堅苦しくて變てこだ。御君さんや金ちやんのは言文一致だから大變心持よく よめます。御多佳さんも是から“サウドスエ”で手紙を御書きなさい。」 加賀 正太郎宛、山荘の名前を水明荘、冷々荘、竹外荘、三川荘、虚白山荘など14 も挙げている。

 机の下から重い『漱石全集』を出そうとして、ぎっくり腰になった。 漱石 はたった12年間で、あれだけの作品を書いた。 漱石より26年長く生き「小 人閑居日記」15年。 没後百年忌前日の句会で<スミレほど小さき吾や漱石忌 >と詠んだ。