中津藩と蘭学「日本近代文化事始」〔昔、書いた福沢135〕2019/10/22 06:31

     中津藩と蘭学「日本近代文化事始」<小人閑居日記 2002.5.4.>

 神谷敏郎さんの「武満徹さんと『解体新書』」を読んで、私が最初にしたこ とは、福沢諭吉の関係から、中津藩医の原家につながるものがないかというこ とだった。 全集や書簡集で、「原」姓の人が5名確認できるが、その中に中 津の医家はいなかった。 次に、「豊前・中津医学史散歩」という副題のある 川嶌眞人さんの『蘭学の泉 ここに湧く』に、あたってみた。 索引がないの で、はっきりしたことはいえないが、ざっと見たところ「原」は見つからなか った。 しかし、中津が蘭学に、ひいては日本に近代西洋文化を導入して定着 させるのに、果した役割を再認識させられたのである。

 母親の脛骨骨折が治らず困っていた中津奥平家三代藩主昌鹿(まさか・17 44-80)は、江戸に来ていた長崎の大通詞・吉雄耕牛に治療を頼んだ所、 あざやかに全治させたので、蘭学に心服した。  それで明和7(1770) 年、藩医前野良沢を長崎の吉雄耕牛のところへ留学させた。 昌鹿は殊の外良 沢をかわいがり、藩医の本務を怠りがちで、人にも交わらずひたすら蘭学に打 ち込むのを告げ口する者にも、あれはオランダの化物だからうっちゃっておけ といったので、良沢は蘭化と号したという。 『ターヘル・アナトミア』やポ イセンの『プラクテーキ(内科治療の実際)』を買って、良沢に貸し与え、そ の蘭学研究を励ましたのも昌鹿だった。 良沢は長崎で学んだ翌年、千住小塚 原での「腑分け」に立ち会って感動、わずかなオランダ語の知識ながら『ター ヘル・アナトミア』翻訳の中心となり、文字通り「蘭学事始」のルーツになっ た。

 奥平家五代の殿様昌高(1781-1855)も、自ら率先して蘭学を学 び、長崎出島のオランダ商館長ヅーフや日本近代医学発展に大きく貢献したシ ーボルトと親交があった。 『江戸ハルマ』以外に大した和蘭辞書がなかった 当時、昌高は神谷源内『蘭語訳撰』(1810)、大江春塘『中津バスタード 辞書』(1822)を刊行し、蘭学の発展に貢献している。

 ペリー黒船来航後の幕末近く、福沢諭吉が長崎で蘭学修業したり(185 4)、兄が死んで家督を相続したにもかかわらず砲術修業と称して大坂の緒方 洪庵の適塾への再度の遊学を許可されたり(1856)、適塾で塾長を務めて いるのを蘭学塾を開くようにと藩命で江戸に呼ばれたりした(1858)下地 は、中津藩に十分にあったのだった。 前野良沢で蘭学の火を灯した中津藩 は、福沢諭吉の英学転向によって蘭学の幕を下ろした。 東京都中央区明石町 の聖路加国際病院前の中津藩中屋敷跡には、前野良沢が、杉田玄白、中川淳庵 らと『ターヘル・アナトミア』翻訳を開始したことを記念する「蘭学の泉はこ こに」という蘭学創始の碑と、福沢諭吉が蘭学塾を開いた慶應義塾発祥の地の 記念碑が並んでいる。 昭和57年2月3日、中央区の道路改修で二つの碑の 場所が若干移動したのに伴ない、この二つの碑は「日本近代文化事始の地」記 念碑として、改装披露された。       (つづく)

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