枇杷の会・大磯鴫立庵、松本順の墓2021/11/30 07:10

 28日は、慶應志木会・枇杷の会の大磯吟行と鴫立庵句会があり、鴫立庵二十三代庵主本井英先生の本拠地での句会となった。 10名に不在投句が3名、計13名、幹事役の深瀬一舟さんのご努力で新参加者が3名あり、賑やかになってきた。 閉庵午後4時に合わせて、いつもより1時間早く、11時の大磯駅集合、国道一号線沿いの鴫立庵へ。 本井先生は庵で待っていて下さり、近辺を案内して頂けることになった。

 私は、ちょっと時間をもらって、福沢先生の「大磯の恩人」という文章の話をした(「等々力短信」715号1995.8.15.「大磯の恩人」と、『夏潮』「季題ばなし」2011年7月号「海水浴」2012年6月号「虎ヶ雨」を配布)。 松本順(良順)は明治初期の医者で、大磯が海水浴・避寒の適地だと説き、この地が日本最初の海水浴場、別荘地になった。 福沢先生が大磯の人々にその恩を忘れるなという一文を書いて、よく避寒に逗留した旅館松仙閣の主人に渡した。 のちに照ヶ崎の海岸に福沢門下生らの手で松本順頌徳碑が建てられている。

 福沢先生の提案が、大磯の人々に受け入れられたことが、早稲田八幡鮨(やはたずし)四代目安井弘さんの『早稲田わが町』(書籍工房早山)という本にもあった。 松本順の晩年、大磯町の多数の有志から、土地と家屋が贈られて、そこに住んだ。 だが、いつの間にか、その屋敷を手放して山の家に引き込んでしまう。 そこで日蓮宗の経典に「楽痴」の文字を見つけ、号を「蘭疇」から「楽痴」と改め、山の家を「楽痴庵」と名づけた。 心臓を病む松本順を、軍医総監を辞して順天堂病院の医院長になっていた甥の佐藤進が、しばしば東京から大磯まで診療に来ていた。 麻布我善坊に生まれ、江戸っ子気質をつらぬき通した松本順は、甥の進に看取られて明治40(1907)年3月12日、大磯の楽痴庵で起伏に富んだ75年の生涯を閉じた。

 本井英先生のご案内で、周辺の吟行へ出かける前、鴫立庵の庭を一周したら、前北かおるさんが松本順の墓があるのを発見した。 一抱えもあるような表面がブツブツした丸い大きな石で、梵字らしい一字が刻まれている。 だが以前、大磯の友人に案内してもらって、日蓮宗妙大寺の松本順の墓へ行ったことがあった。 不思議に思った。 あとで、鴫立庵を管理しておられる湯川さんにお尋ねすると、松本順は初め、鴫立庵に妻や子とともに埋葬されていたが、後に妙大寺の墓へ移されたとのことだった。

コメント

_ 深瀬 啓司 ― 2021/11/30 15:45

ご紹介を有り難うございます。
松本良順の全体が分りました。
しかし漬物石のような巨大墓碑が鴫立庵の庭にあるなんて
偶然ですね。ここで又枇杷の会もやりたいと思います。
では

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