江戸前の「恋女房」に支えられて2022/02/17 07:08

 大正元年、浅草のすきやき屋の平瀬と池野のお祝いの席、牧野も偉いが、奥方も偉いという話になる。 「うちの細君は大した女ですよ。出産してまだ三日目という日に起きて、債権者の家まで一日がかりの遠出をした」 富太郎、齢51、禄が30円で借金が二万円、2月に生まれた六男の富世が死んだが、子供は7人、一番上の香代はもう21歳だ。

 その翌年、香代が石川県出身の実業家細川正也と祝言をあげることになった。 披露宴に先方は親戚や事業の関係者が多く列席したが、富太郎は大学の講師仲間や助手を呼ぶのは気が進まず、親戚縁者も少ない身の上だ。 壽衛が二十年以上手紙のやりとりをしていた猶夫妻に、出席を依頼した。 猶と和之助は、岸屋の家財の整理後、佐川を出て静岡に移ったが、今は東京にいる。 婚礼の出席者に猶は、「牧野の従妹でございます」と、言った。 壽衛は、婚礼仕度についても、猶に相談に乗ってもらっていたらしい。 箪笥に蒲団、着物に履物と、また手妻師のごとき算段をつけて、壽衛は娘を嫁がせた。

 池長孟との研究所設立が暗礁に乗り上げ、池長からの援助が間遠になっていた頃、援助を受けないでも自活しようと、壽衛は荒木山(四谷荒木町津の守花柳界)で待合「いまむら」を始めた。 繁盛していたが、帝大教員の妻が待合とはいかがかという批判が出て、学部長に呼ばれる。 結局は、手放すことになった。

 関東大震災の後、壽衛が郊外の大泉村に家を建てよう、土地は借り、普請は「いまむら」の権利を売った金を元手にすると言い出す。 壽衛と所帯を持って以来、30回以上も引っ越しを繰り返した、いつも大きな家に…。 標本と書物、子供が増え続けたからだ。 大正15年5月、新居に入った。

 翌年、池野成一郎ら長年の友人に熱心に勧められて、富太郎は「日本植物考察」を主論文として理学博士の学位を授与された。 壽衛はたいそう歓んだ。 6月、前年に続いて、壽衛がまた倒れ、悪性の腫瘍だと診断された。

 昭和3年が明け、富太郎は去年仙台で発見した新種のササに「スエコザサ」、学名「Sasa suwekoana Makino」という名をつけ、私費で刊行を続けている『植物研究雑誌』第五巻第二号で発表することにした。 2月23日の払暁、医師に「お覚悟を」と告げられ、「世話になった。有難う」最敬礼をした。 およそ40年もの間、共に生きた。 子を13人生み、6人を育て上げた。 享年56である。

 野辺送りの後、猶が残った。 「お壽衛さんは、ご自分のことを不幸だなんて一度たりとも思ったことはないような気がしますけんどねえ。貧乏は貧乏だけれども恥ずかしい貧乏じゃない。道楽息子を一人余分に抱えているようなものだなんて言って笑いよりましたよ」「お壽衛さんは、江戸前の女でしたよ。誇りをもって、あなたを支えたがです。ただひたすら、あなたに夢中だったのかもしれませんねえ。草木に夢中なあなたに」と、言った。

 <家守りし妻の恵みやわが学び 世の中のあらん限りやスエコザサ>

朝井まかてさんの『ボタニカ』を2月4日から二週間、14回も書くことになったのは、この本を読んで牧野富太郎という人物の生き方に感じるところがあったからだ。 朝井まかてさんの小説は、朝日新聞連載の『グッドバイ』、幕末から明治にかけ長崎や横浜で活躍した女貿易商大浦慶の物語を読んだだけだった。 来年春のNHK朝ドラは、牧野富太郎を神木隆之介でやるそうだ、楽しみに見ることにしよう。