浅井清の『あたらしい憲法のはなし』2022/06/06 06:55

 自由民権運動の頃の、私擬憲法案のことを書いていて、戦後の日本国憲法制定の頃のことを書いた最近の新聞記事を二つ、思い出した。

 5月3日、憲法記念日の朝日新聞「天声人語」。 終戦の翌々年というから昭和22(1947)年、中学1年生の教材として国が『あたらしい憲法のはなし』という冊子を配った。 戦車や軍用機を大鍋に放り込み、グラグラと煮込む。 溶かした兵器は真新しいビルや乗り物に生まれ変わる……そんな挿絵がある。 奥付に「この本は浅井清その他の人の人々の尽力でできました」とあって、天声人語子が憲法学者の高見勝利さん(77)に聞くと、浅井清は慶応大で教えた根っからのリベラリストだったという。 私は、浅井清の名を知らなかった、法学部でなく、経済学部だったからということにしよう。

 天声人語は、さらに浅井清について、「台頭する軍部に迎合しがちな主流学派とは一線を画し、不遇をかこつ。1935年の天皇機関説事件で美濃部達吉が排撃されると、次の目標の一人に。『口をつぐまざるを得ず、忸怩たる思いだったでしょう』▼戦後、国は手のひらを返し、浅井に新憲法の解説役を任せる。<嬉々として学校へ通う子供達の姿を見るにつけ(略)憲法の知識を持たせる唯一の機会が、著者に与えられたことに感激を覚えた>。自著に記した一文は、彼の高揚感を伝える▼<くうしゅうでやけたところへ行ってごらんなさい。やけただれた土から、もう草が青々とはえています>。基本的人権を子どもに説き起こした。その筆致はやさしく力強い▼きょうで憲法施行から75年。<いくさをしかけることは、けっきょく、じぶんの国をほろぼすようなはめになる>。浅井の手になるこの一節が現代のロシアの人々に浸透していたら、世界は穏やかな5月を迎えていたのではないか。戦車を煮る大鍋の絵をじっと見つめた。」

 浅井清、1895(明治28)年~1979(昭和54)年(83歳没)。 兵庫県神戸市生まれ、1919(大正8)年慶應義塾大学部法律科卒業。 ヨーロッパに3年間留学の後、1929(昭和4)年法学部教授に就任。 憲法・行政法を専攻し、ハンス・ケルゼンの影響を受け天皇機関説を主張した。 戦後の1946(昭和21)年7月19日に貴族院議員に勅選され、1947(昭和22)年5月2日の貴族院廃止まで在任した。 1948(昭和23)年GHQの登用方針の下、臨時人事委員会委員長(委員会が人事院に改組され、初代総裁。1961(昭和36)年2月5日まで務めた)に就任した。 のち民主主義研究会会長、国際基督教大学教授、駒澤大学教授を歴任。 戦後の著書に、『元老院の憲法編纂顛末』(巌松堂書店・1946年)、『新憲法と内閣』(国立書院・1947年)、『国家公務員法精義』(学陽書房・1951年)、『明治立憲思想史におけるイギリス国会制度の影響』(有信堂・1969年)。

忘れられた鈴木安蔵と憲法草案2022/06/07 06:57

 戦後の日本国憲法制定の頃のことを書いた、もう一つの新聞記事は、5月25日朝日新聞朝刊「多事奏論」、オピニオン編集部駒野剛記者の「忘れられた憲法草案 受け継ぎたい先人の思い」だ。 憲法学者、鈴木安蔵、私は名前も知らなかった。 駒野記者も私と同じような調べ方をしている。 デジタル版の『広辞苑』にも『大辞林』にもなく、小学館の『大辞泉』でようやく見つかったとある。 「戦後は高野岩三郎らと憲法研究会を結成。『憲法草案要綱』の起草にあたった」。 さらに「憲法草案要綱」を引くと、鈴木らの「憲法研究会が発表した憲法の草案。日本国憲法の基礎となったGHQ草案に影響を与えた」とあったそうだ。

 駒野記者は、「鈴木らの活動は歴史の流れの中で忘れられた。憲法は連合国軍総司令部(GHQ)が草案を作り、それを日本が受け入れたという物語が残り、ゆえに「押しつけ憲法」と批判され、改憲の名分にされてきた。」とする。

 そして鈴木安蔵の生誕地、福島県南相馬市、JR常磐線小高駅に近い旧家を訪れる。 「鈴木安蔵を讃える会」が、この家を「憲法のふるさと」として保存、その業績を広く知ってもらう活動をしている。

 1945年8月の敗戦直後、社会思想家の高野岩三郎らは日本文化人連盟の結成を呼びかけた。 10月29日、創立準備会が開かれ、高野は出席した鈴木に「憲法も改正しなくてはならない。憲法をやってきた君が努力せよ」と働きかけた。

 憲法を一から作る時、鈴木は絶好の人材だった。 戦前治安維持法違反で投獄後、日本の憲法の問題点を学ぼうと、自由民権運動の指導者の一人植木枝盛らのつくった私擬憲法案や世界の憲法の研究を重ねた。 11月5日、彼を幹事役に憲法研究会の初会合があり、毎週水曜日に新憲法の条項を話し合った。 最終案は12月26日にまとめられ、首相官邸に渡され、新聞発表された。

 28日の朝日新聞朝刊に「統治権は国民に」の見出しで憲法草案要綱が載った。冒頭「日本国の統治権は日本国民より発す」と宣言。 国民主権をうたい、天皇が主権者とした旧憲法の全否定から始まった。

 「国民は民主主義並(ならびに)平和思想に基く人格完成社会道徳確立諸民族との協同に努むるの義務を有す」という、日本国憲法の平和主義に連なる条項も盛り込まれている。

 政府も改憲案を練るが天皇主権の基本を変えない小手先の改正にとどまっていた。

 軍部が天皇主権に乗じ国家を独裁したのが侵略の起点と見なしたGHQは、国民主権への抜本変更が不可欠と考えた。 要綱が出たのはこの段階で、後のGHQの草案作りに少なからぬ影響を与えたのだ。

 焦土の中、果敢に議論し、日本のあるべき姿を求め、自ら憲法を作ろうとした人々がいたという事実を忘れてはなるまい、と駒野記者は言う。  そして、ロシアのウクライナ侵略後、憲法の考え方に影響が出ているけれど、うろたえず冷静に考えて、憲法に託した鈴木らの思いを受け継ぎたい、日本の礎、平和主義、国民主権、基本的人権の尊重の大原則は、揺るがしてはならない、と主張している。

エリザベス女王「プラチナ・ジュビリー」中継を見て2022/06/08 07:09

 イギリスのエリザベス女王の即位70周年を祝う行事「プラチナ・ジュビリー」、2日の近衛兵らのパレードとトゥルーピング・ザ・カラー(軍旗敬礼分列式)、バッキンガム宮殿バルコニーお出ましの中継をNHKのBSプレミアムで見た。 ニュースウォッチ9のキャスターだった有馬嘉男欧州総局副局長が司会をしていた。 最近のオリンピックの開・閉会式の中継でも感じるのだが、この中継、事前の準備が悪く、行進の順番や誰が参加しているのかなど、説明が行き届かない感じがした。

 96歳のエリザベス女王、騎乗や馬車でのパレード参加はなさらなかったが、お元気だ。 解説していた君塚直隆関東学院大学教授が、有馬さんも私も生まれていなかったと言ったのは、エリザベス女王の何十周年の祝賀行事だったか。 私もつくづく年取ったと感じたものだが、1953(昭和28)年6月2日、ウェストミンスター寺院でのエリザベス女王25歳の戴冠式の実況中継をNHKラジオで聴いた。 アナウンサーは、街頭録音や二十の扉をやっていた藤倉修一さんだった。

 上皇さまが、皇太子時代に昭和天皇の名代として、この戴冠式に参列された。 その皇太子外遊は、3月から10月まで欧米両大陸14か国に及んだ。 小泉信三さんは随員ではなかったが、5月から10月までとみ夫人とともに外遊し、途中しばしば同行している。 吉田茂首相の勧めにより、「殿下御帰りの際、その御教育参与者が戦後の西洋を知らなくてはお役を辱しめるだらう」(谷村豊太郎宛書簡)との考えにもとづくものだった。 帰国翌日の小泉信三さんに、吉田茂首相は、「殿下到る処御態度御立派にて何よりも難有、唯々感涙の外無之、之れ一に貴下其他の御補導の結果と存、心より御礼申上候」と、書簡で労をねぎらった。(『生誕120年記念 小泉信三展図録』)

『図書』表紙、杉本博司さんの「portraits/ポートレート」2022/06/09 07:07

 エリザベス女王の「プラチナ・ジュビリー」について書いたのは、実はマクラで、これから紹介することを書きたかったからだ。 岩波書店の『図書』が1月号から表紙に使っている杉本博司さんの「portraits/ポートレート」である。 現代美術作家という肩書の杉本博司さんは、虚実の関係を鮮烈な手法であぶり出す写真作品で世界的に活躍している方だそうだ。

 幕末期、Photographという技術を「写真」と訳した初出は柳河春三の「写真鏡図説」と思われると説明したあと、杉本博司さんは、「私はこの写真術を操る技術者として、真を写すとは如何なることかを探求してきた。真は手強い。迂闊に手を出すと深傷を負う。私は真を炙り出すために虚を使うという手法を編み出すことにした。虚の向こう側にこそ真は垣間見えるはずだ。」という。

「portraits/ポートレート」シリーズは2年間、24回の予定、第1回の1月号は、文学界のレジェンド、ウィリアム「シェイクスピア」。 禿げ上がった頭に、薄い口髭と顎髭、険しい顔で睨みつけている。 杉本さん訳、『マクベス』よりの、言の葉が付されている。 「無心の花と見せかけて、そこに潜む蛇におなりなさい」

オスカー・ワイルドの肖像2022/06/10 07:08

 『図書』表紙、杉本博司さんの「portraits/ポートレート」2月号は、「この人ほど虚像に似つかわしい人物は他にいない」というオスカー・ワイルドだった。 オスカー・ワイルドといえば、すぐ童話「幸福な王子」を思い出すだろう。 子供の頃、リライトされて読んだ物語は、「思いやり」の大切さを説くものだった。 「幸福な王子」は、自らの身を覆っていた宝石と金箔を貧しい人々へ分け与えて、次第にみすぼらしい外観になり、「燕」はその姿に寄り添いつづけて最終的には生命を落とすことになる。 恩師の奥様、小尾芙佐さんが訳された光文社古典新訳文庫のオスカー・ワイルド『幸福な王子/柘榴の家』の帯には、「大人のために訳しました ビターな味わいの童話集」とあり、小尾芙佐さんの「あとがき」から、こう引いている。 「ワイルドはこの童話集を子どもたちに話してきかせるため、(中略)書いたといわれているが、ワイルドが意図するところは、あくまでも繊細な心をもつ大人たちのためということではなかったかと思われてならない。読みおえたとき、わたしの大人の心が感じたままにこれを訳してみたいという思いが湧いた。」

 杉本博司さんが「この人ほど虚像に似つかわしい人物は他にいない」とする理由を、この『幸福な王子/柘榴の家』の田中裕介青山学院大学准教授の解説で知った。 田中さんは、「幸福な王子」の読後感を「思いやり」の大切さといった道徳的教訓でまとめようとしても、「王子」と「燕」の行為には、簡単にそれを許さない過剰なものがあると言う。 ワイルドは、「童話」以外に、代表作である小説『ドリアン・グレイの肖像』(1891年)と戯曲『サロメ』(1893年)など、美的な快楽と性的な欲望を中心とする個人としての生き方を貫く人物を登場させた作品群によって一世を風靡しただけでなく、自身の派手な言動と服装で、イギリスのみならず、アメリカでもフランスでも19世紀末の大有名人だった文学者だ。 そんなイギリス世紀末を代表する唯美主義者で、筋金入りの個人主義者であった芸術家のイメージは、子供向けの物語を制作していたという事実と、もしかしたらうまく結びつかないかもしれない。

 しかし、この落差を埋める簡単な事実がある。 ワイルドは、1884年、弁護士の娘コンスタンス・ロイドと結婚して、シリルとヴィヴィアンという二人の男児を儲けた。 第一童話集『幸福な王子とその他の物語』(1888年)、第二童話集『柘榴の家』(1891年)は、幼い子供たちに読み聞かせるために書かれたと言ってもよいだろう。 だがワイルドは1895年、当時存在した男性間の性的行為を禁ずる法律のために有罪判決を受けて、二年間の獄中生活を余儀なくされる。 この父親の運命の暗転は、二人の子供の人生を一変させた。 妻コンスタンスは父親の汚辱が息子たちの身に及ばないように、ホランドという自分の一族に所縁(ゆかり)のある名字を新たに選んで付けると、スイスの寄宿舎へと送り出し、やがて出獄した父親の面会を許さないように手配する。