稲場紀久雄著『バルトン先生、明治の日本を駆ける!』2022/08/07 07:52

 ここで、稲場紀久雄さんのご著書『バルトン先生、明治の日本を駆ける!』(平凡社)を紹介させていただいた「等々力短信」第1089号『バルトン先生、明治の日本を駆ける!』(2016(平成28)年11月25日)を、再録しておきたい。

    等々力短信 第1089号 2016(平成28)年11月25日

        『バルトン先生、明治の日本を駆ける!』

 稲場紀久雄さん(大阪経済大学名誉教授)が「日本の公衆衛生の父」W・K・バルトン(1856-1899)の、写真を多数収録した、読みやすい評伝を平凡社から出版された。 バルトンは、帝国大学教授としてコレラ禍から日本を救うため、上下水道の整備を進める一方、浅草十二階(凌雲閣)の設計を指揮、近代的写真術を日本に紹介した。

 スコットランド人のバルトンが、長與専斎内務省衛生局長、永井久一郎書記官の招きで来日したのは明治20(1885)年5月、その前年のコレラ大流行、未曽有の大災厄を受けて、その阻止のためであった。 帝国大学に衛生工学講座を開設し初代教授に就任、技術者の養成と全国の衛生工事の指導を委ねられる。 3年契約、月俸350円。 やがて、その契約は三回も更新され、満津を妻とし、娘の多満(実母は不明)を育てる。

 期待に奮い立ったバルトンは、その時31歳。 永井は36歳、長與の片腕でバルトンの親友になる後藤新平は30歳。 帝国大学には、素晴らしい知性と才能を持つ人たちが、お雇い外国人として、東洋の小国・明治日本建設の情熱に共感し、若い力を発揮していた。 医学のベルツ38歳、地震学のミルン37歳、建築のコンドル35歳。

 バルトンが強い印象を受けたのは、その妻たちの姿だった。 当時日本女性は“人形のようだ”といわれたが、むしろその反対、知的で自己抑制力があり、向上心に溢れ、生き生きと美しい。 ベルツ花、ミルン利根、コンドル粂、日本史や民族史、美術史を研究したジャーナリストのブリンクリの妻安子。 外国人教師同士も、お互いによく協力し合っていたが、外国人と結ばれたことで厳しい境遇にあった夫人達も、強い連帯感で結ばれ、助け合っていた。 ベルツ花の紹介で、満津はバルトンの家を手伝う。

 バルトンは、来日してから9年間、内務省衛生局顧問技師として、北は函館から南は長崎まで、国内28都市の上下水道及び衛生改善の計画策定や技術指導に文字通り東奔西走した。 明治29(1896)年に香港でペストが流行、台湾でも患者が出た。 台湾総督府は後藤新平を衛生顧問、バルトンに衛生工事監督を嘱託する。 バルトンは教え子浜野弥四郎とともに、台湾で衛生改革に没頭、明治32(1899)年5月長期休暇を取って一時帰国の途上、8月東京で肝臓アプセスあるいはアメーバ赤痢で亡くなる。

 この本の23頁、「バルトンの父ジョン・ヒルが福澤諭吉を介して日本の近代化に大きな影響を及ぼしたことも明らかになった。妻の友人脳神経外科医藤原一枝さんから福澤諭吉協会の随筆家馬場紘二さんの随筆集を頂戴した。」 『五の日の手紙3』に私は『西洋事情』外編の主体がジョン・ヒル・バートンの『政治経済学』の翻訳だったと記していた。 バートンとバルトン、父子で日本の近代化に貢献したのだった。