夏目漱石の「修善寺大患」2022/08/13 06:56

 修善寺でまず思い浮かぶのは、夏目漱石のいわゆる「修善寺大患」である。 その時期は、「大正四年冬」と離れていたのだろうか。 漱石の宿は、新井屋旅館だったのだろうか。

 夏目漱石は、『門』の脱稿後、長年の胃腸虚弱による胃潰瘍が悪化し、明治43(1910)年6月18日に長与胃腸病院に入院した。 入院中は、温めた蒟蒻を腹にあてる治療方法がとられ、火傷による火ぶくれに苦しめられた。 治療を終えた頃には患部の皮膚が黒く焦げていたが、漱石の日記には「此黒い色が記念になって年来の胃病が癒れば黒く焼けた皮膚は嬉しい記念である」(7月14日)と、胃病の完治を切に願う心境が垣間見える。

 7月31日に退院した漱石は、8月6日に転地療養のため、当時、湯治先として知られた伊豆・修善寺温泉へと赴いた。 この修善寺行きは、松山中学時代の教え子である松根東洋城の勧めでもあった。 療養かたがた現地で東洋城と俳句に親しむ考えだったとみられる。

 しかし、途中で合流するはずの東洋城が現れず、漱石は御殿場で途中下車し、プラットフォームで数時間待つはめになる。 前日から体調を崩していた漱石は、8月の厳しい暑さも影響して、次第に咽喉を痛めてしまう。 胃の具合が悪くなる前には必ず咽喉の不調を訴えるのが常だった。

 修善寺にようやく到着して、宿泊先の菊屋旅館で湯治を試みるものの、入浴のたびに胃痙攣の発作が起きる始末。 日記には「余に取っては湯治よりも胃腸病院の方が遥かによし」(8月8日)と不平を漏らし、この日以降、病状は悪化の一途を辿る。 漱石の病状ばかりか、天候も荒れ模様となり、東海道地方を中心に記録的な大雨が襲い、汽車や電話が不通に、各地では床上浸水など水害被害に見舞われた。 漱石の子供たちは妻鏡子の母親に連れられて茅ヶ崎へ海水浴に行っており、鏡子はようやく汽車が復旧すると、まずは子供達の元へ行き、その後、修善寺に向かったのだった。

 漱石重病との報を聞き、8月18日、東京朝日新聞社主筆池辺三山の依頼で、五高時代の教え子で社員の坂元雪鳥と長与胃腸病院の森成麟造医師が修善寺に急行。 雪鳥は同日から9月8日までの間、『修善寺日記』と題した日記へ漱石の病状を克明に記した。 19日には鏡子も到着し、看病に当たった。

 8月24日午後8時30分、500グラムの大吐血をして人事不省に陥った漱石は、およそ30分間意識を失う。 鏡子が漱石に代わって記した当日の日記には「カンフル注射15 食エン注射ニテヤヽ生気ツク皆朝迄モタヌ者ト思フ 社ニ電報ヲカケル夜中ネムラズ」と緊迫した状況が綴られている。 漱石危篤の電報は朝日新聞社をはじめ関係者へ送られたが、このうちの鈴木三重吉宛電報2通が岩波書店に残されている。 24日午後11時発の一報は「ビヨウキキトク」とだけ、25日午前2時発には「至急私報」の印が押され、「シユゼンジキクヤセンセイキトク」とあり、予断の許さない深刻な状況が続いていたことが伝わってくる。

 漱石は、奇跡的に一命を取り留めた。 徐々に快方へ向かい、10月11日に帰京。 新橋駅から担架に乗せられ、そのまま長与胃腸病院へ再入院する。 翌日、鏡子から前回の入院では診察に当たり、修善寺に派遣した森成医師には漱石が全快するまで留まるよう指示をした長与称吉院長が、9月5日に亡くなっていたことを聞かされる。 そして日記に、「治療を受けた余は未だ生きてあり治療を命じた人は既に死す。驚くべし」(10月12日)と記した。