露寇事件、ロシア船からの攻撃2023/03/12 07:33

 露寇事件の経過、攻撃の詳細を振り返る。

 まず文化3年9月11日(1806年10月22日)、カラフト(樺太)のクシュンコタン(久春古丹)の松前藩居留地を短艇で上陸したロシア兵20数名で襲撃、13日にも30数名で再び上陸し、運上屋の番人4名を捕えた後、米600俵と雑貨を略奪、11箇所の家屋や船、漁網を焼いた。ロシア船は17日に去ったが、船を焼失したため連絡手段が絶たれ、翌年4月になって事件が松前藩と幕府に報告された。

 文化4年4月25日(23日とも)、ロシア船二隻が択捉島の西、ナイホ(内保)湾に入港した。 内保の盛岡藩の番所が襲撃され、番人5名を捕え、米、塩、什器、衣服を略奪して、火を放った。 4月29日、ロシア船が幕府会所のある紗那(シャナ)に入港してきたので、幕吏たちは対話の機会をさぐるため、白旗を振ったが、短艇で上陸したロシア兵は即座に銃撃してきた。 弘前、南部藩兵が応戦するも、圧倒的な火力の差に苦戦する。 夕刻、本船に帰船すると、艦砲射撃で日本側を威嚇、圧倒的な戦力差に戦意を失った指揮官の戸田又太夫、関谷茂八郎たちは、紗那を捨てて撤退することを決意する。 幕吏の間宮林蔵や久保田見達は、徹底抗戦を主張するも戸田らに退けられる。 敗戦の責任を痛感した戸田は撤退の途中で自害、弘前、南部藩兵は振別に駐屯する。 5月1日、日本側が引き揚げた紗那幕府会所にロシア兵が上陸。 2日、倉庫を破り、米、酒、雑貨、武器、金屏風その他を略奪した後、放火する。

 文化4年5月21日、カラフトのオフイトマリに来襲。  文化4年5月29日~6月2日、宗谷近海にロシア船が現われ、官船万春丸を攻撃し、利尻島にも来襲、万春丸の大砲一門と地図、米、酒を略奪、万春丸と番屋、倉庫、家屋が焼き払われ、領民が拉致される事件があった。 幕府は利尻島を天領とし、会津藩が藩士252名を送って警固に当たった。