200年前のロシア危機 露寇事件2023/03/11 07:22

 「元寇」は神風とも関連して知っていたけれど、「露寇」という言葉は知らなかった。 愛用の電子辞書を引いても、「露寇」は出て来ないが、わずかに『山川 日本史小辞典』に元号を冠せた「文化露寇事件」があった。 3月4日に再放送された『英雄たちの選択』「200年前のロシア危機 露寇事件」を見た。 冒頭、磯田道史さんは、教科書には出て来ないけれど、ペリー来航より重要かもしれない、と言った。 この事件で、幕府、そして日本は、対外的な危機意識に目覚めざるを得なくなる。 それで日本の近代化は動いていく、日本近代へのターニングポイントだというのだ。

 文化4(1807)年6月、幕府に蝦夷地から「元寇」以来の外国船による日本攻撃の報告がもたらされて、幕府を震撼させ、幕閣はその対応に苦慮する。

 歴史を少し振り返る。 まずラクスマン(1766-1803頃)。 寛政4(1792)年ラクスマンがエカチェリーナ2世に遣日使節に選任され、大黒屋光太夫ら3名の漂流民を伴い、シベリア総督ピールの修交要望の書簡を持参し、根室に来航した。 翌寛政5(1793)年松前城下で幕府目付で宣輸使となった石川忠房らと3回にわたって会見、通商を拒否されたが、交渉のためロシア船が長崎に入港することを許す信牌(特許状)を得て帰国した。 番組では、この妥協をしたのは、老中筆頭松平定信だとした。

 つぎにレザノフ(1764-1807)。 ロシア領アメリカ会社(米露会社)の総支配人として、千島、アラスカ、カリフォルニアに及ぶ植民事業を統轄するとともに、宮廷では侍従長の要職を務めた。 ロシア最初の世界周航隊に加わり、文化元(1804)年軍艦ナジェージダ号で来日、先年の信牌により長崎奉行と応接したが、半年も待たされた上、待遇も悪く、通商を開かせる要求など全て拒絶され、携行したアレクサンドル1世の親書も受取を拒否された。 これに怒ったレザノフは、文化3(1806)年、武力を背景に通商開始を迫ることを決意、部下の海軍士官フボストフらに命じてサハリン(樺太)やエトロフ(択捉)島の日本人集落を報復攻撃する計画を立て、文化3(1806)年、4(1807)年、攻撃させた(丁卯(ていぼう)の変)。 レザノフ自身は、オホーツクを経て陸路ペテルブルグへ向かったが途中で病没した。