松平定信「寛政の改革」、取締りから生まれた蔦重の工夫 ― 2025/04/03 06:53
大田南畝の四方赤良は、天明3(1783)年朱楽菅江と共に『万載狂歌集』を編む。 この頃から田沼政権下の勘定組頭土山宗次郎に経済的な援助を得るようになり、吉原にも通い出すようになる。 天明6(1786)年ころには、吉原松葉屋の遊女三保崎を身請けし妾として自宅の離れに住まわせるなどしていたという。
しかし天明7(1787)年、松平定信によって「寛政の改革」が始まった。 田沼政治の重商主義の否定と、緊縮財政、風紀取締りにより幕府財政の安定化が目指された。 田沼寄りの幕臣たちは「賄賂政治」の下手人として悉く粛清されていき、南畝の経済的支柱であった土山宗次郎も横領の罪で斬首されてしまう。
天明8(1788)年、朋誠堂喜三二の黄表紙『文武二道万石通』が松平定信のとがめを受け、朋誠堂喜三二の秋田藩士平沢常富は、藩から止筆を命じられる。 次の年、寛政元(1789)年に入ると、山東京伝が画工北尾政演として加わった『黒白水鏡』で罰せられ、恋川春町の駿河小島藩士倉橋格は黄表紙『鸚鵡返文武二道』で定信に呼び出されて死去、主家に累が及ぶのを恐れて自殺したとも考えられている。 そして寛政3(1791)年、蔦屋重三郎は『娼妓絹麗』『錦之裏』『仕懸文庫』の三冊の洒落本で身上半減、作者の山東京伝は手鎖五十日の刑を命じられた。 華々しい活躍をしている者に対する「みせしめ」であったろう。
ところで、喜多川歌麿の「大首絵」が出現するのは、蔦屋重三郎身上半減の翌年、寛政4(1792)年のことである。 蔦重は、必ず売れる細見、往来物(手習い所用の教科書)、富本の稽古本などを刊行する手堅い商売人であったが、その寛政改革以降はその手堅さだけでは足りずに、書物問屋株を取得することで漢籍、和学書も刊行するようになっていった。 伊勢の本居宣長にまで会いに行っている。 黄表紙も洒落本も浮世絵も、「商品」として工夫され、深められたのである。 寛政6(1794)年5月から10か月の間に制作された東洲斎写楽の「大首絵」も同様に、身上半減後の蔦屋を継続するために生み出された工夫だった。 贅沢をとがめられてもなお、雲母刷りの大首絵という、華やかで贅沢なインパクトの強い商品を生み出した重三郎は、最後の最後まで江戸文化の格を下げることなく、堕することもなく、江戸文化を企画し続けたのである、と田中優子さんは「蔦屋重三郎は何を仕掛けたのか」(2010年サントリー美術館「歌麿・写楽の仕掛人 その名は 蔦屋重三郎」展の図録)を結んでいる。
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