女は能を舞えるか ― 2006/03/01 06:53
細川護煕さんの『知るを楽しむ』“私のこだわり人物伝。”「白洲正子・目利き の肖像」の三回目は「能・色気の形」だった。 白洲さんは、6歳で昭和の名 人といわれる二世梅若実に入門、18歳(放送では14歳)の時には女人禁制の能 の舞台に史上初めて女性として立った。 実の孫、五十六世梅若六郎は「型か ら外をきちんと学んだ方、だからこそ中が充実してくる。舞が祖父に瓜二つだ った」「外側がものすごくしっかりしている、女性では初めて」と、語った。 50歳で観世流梅若家の免許皆伝となるが、その直後、女に能は出来ないと悟り、 突然能をやめてしまった。
白洲正子さんには、能の型を窮めたあと、表現したいものがあった。 最晩 年の著書『両性具有の美』に「(能の本質は)男と女の中間を行く、きわどい一 瞬の閃き」にある、と書いているそうだ。 能の大成者、世阿弥は時の将軍足 利義満の寵愛を受けた絶世の美少年だったという。 白洲さんは「男が女に扮 装するという抽象的な美しさは、広くいえば仏像にまで通じる美しい人間像の 典型ではないでしょうか。そういう神秘的な美しさを、同性愛(ナルシズム、と 振り仮名がある)の卑俗な趣味と結びつけたのがお能です。」(『お能の見方』) と、書いている。 世阿弥は「児姿(ちごすがた)は幽玄の本風(ほんぷう)なり」 と言った。 細川さんは、白洲さんが能の究極の美として考えていたのは、こ の「児姿」ではなかったのかという。 能では男が舞うからこそ、表れるとさ れている女の心を、白洲正子さんは女の身で表現したいと願って、果たせず、 断念した。 青柳恵介さんは、白洲さんが「男らしいお能は女でもできる。動 きの少ない女性の内向的なお能を女性が舞うのは難しい。女性が色気を出そう とすると、ナマの女が出てしまう。一回、自分の性を捨てて、新たに作り出し ていくことが、女だからかえって難しい」と話していた、と言った。
間部詮房が、喜多流の能役者で、十九歳の時、甲府宰相綱豊(後の六代将軍家 宣)の小姓となってから驚異的な出世をとげた話(2月27日)から、この一連を 思い出した。
小人閑居日記 2006年2月 INDEX ― 2006/03/01 10:03
2780 藤原正彦さんの「創造」する法<小人閑居日記 2006.2.1.>
2781 藤原正彦さんの教育論、「褒める」<小人閑居日記 2006.2.2.>
2782 数学と「情緒」・美的感受性<小人閑居日記 2006.2.3.>
2783 ナショナリズムとパトリオティズム<小人閑居日記 2006.2.4.>
2784 『星の王子さま』旧訳と新訳<小人閑居日記 2006.2.5.>
2785 “Le Petit Prince”を、どう訳す<小人閑居日記 2006.2.6.>
2786 風太郎の「大ウソ」遼太郎の「小ウソ」<小人閑居日記 2006.2.7.>
2787 歴史の流れと自尊心<小人閑居日記 2006.2.8.>
2788 もう一つの歴史<小人閑居日記 2006.2.9.>
2789 西郷隆盛と山県有朋<小人閑居日記 2006.2.10.>
2790 山田風太郎が描いた「抜刀隊」<小人閑居日記 2006.2.11.>
2791 旧暦のカレンダー<小人閑居日記 2006.2.12.>
2792 月(moon)と生活<小人閑居日記 2006.2.13.>
2793 「美術商の百年」展<小人閑居日記 2006.2.14.>
2794 今年は旧暦の閏年<小人閑居日記 2006.2.15.>
2795 犬猫豚牛は骨董を捻らない<小人閑居日記 2006.2.16.>
2796 普通のものに美を見つける<小人閑居日記 2006.2.17.>
2797 好きなものを、使って楽しむ<小人閑居日記 2006.2.18.>
2798 物がたり「天平の籠」<小人閑居日記 2006.2.19.>
2800 白洲正子さんと月<小人閑居日記 2006.2.20.>
2802 「大安」「仏滅」「友引」に根拠なし<小人閑居日記 2006.2.21.>
2805 高崎城主御家老の十三代目<小人閑居日記 2006.2.22.>
2807 高崎の殿様たち<小人閑居日記 2006.2.23.>
2810 「駿河大納言事件」<小人閑居日記 2006.2.24.>
2813 大河内家と、その家老・堤家<小人閑居日記 2006.2.25.>
短信 2814 たった5年目、明治5年<等々力短信 第960号 2006.2.25.>
2816 余談『柳生十兵衛七番勝負』<小人閑居日記 2006.2.26.>
2818 徳川幕府初期の政権争いと高崎<小人閑居日記 2006.2.27.>
2820 野火止の平林寺・松平源朝臣墓<小人閑居日記 2006.2.28.>
白洲正子さんを支えたもの ― 2006/03/02 07:06
50歳で能を捨てた白洲正子さんは、旅に出た。 その紀行文から、作家の道 が開けた。 白洲さんの著作のほとんどが、能をあきらめた50歳以降に書か れた。 細川護煕さんは、白洲さんのテーマがほとんど能成立以前のものだと いうのが、面白いところだと言う。 能を入口にして、歴史とか文学を書いた。 「一番やりたかった能をあきらめた後、われわれが知っている白洲正子が生ま れた」と、細川さん。
白洲正子さんは、昭和62(1987)年、77歳の時、79歳の友枝喜久雄の能「江 口」を見て感動、一人の観客として能を語るようになる。 喜多の能楽堂で「弱 法師」を見て、さらに熊本で演じられた「弱法師」にまで出かけた。 オッカ ケと称して、友枝喜久雄が亡くなるまで、その舞台をすべてみることになる。 友枝喜久雄(1908-1996)は、細川家とはゆかりの深い(お抱えの)能役者、喜多流 シテ方、女役は天下一品という評判だった。 晩年は目が不自由で、構えらし い構えもなく、動きも無造作なものだったにもかかわらず、わずかな足の運び にも、こぼれるような初々しさがあった、という。
番組では平成8年3月放送の「芸能花舞台」で、白洲正子さんが語っている のを流した。 「すごいでしょ、これ見なきゃあ、本当の能を見たことになら ない」「あの方は、色気があった。歌舞伎のようなシナシナした媚びるようなも のじゃあなくて、能の清純な色気というか、いいようのないもの。とっても色 っぽかった、本当の女になりきっちゃって…」「きわどいんですね。刀の刃の先 を歩いているような。それが何でもなく、ゆったり、平然としている。あの方 のは…」
まとめのアナウンス「男と女の中間を行くきわどい一瞬の閃き、男とも女と もつかない清純な色気、友枝の舞に正子は、長年追い求めてきた能の究極の美 を見出した」が入り、細川護煕さんは「能は白洲正子さんのバックボーンだっ た。白洲正子の世界を支えたのはお能で、その人生に一番彩りをそえたものだ った」と語った。
彦いち英語落語 ― 2006/03/03 08:09
1日は第452回落語研究会。 2月の分がずれこんだ。
「湯屋番」 春風亭 朝也
「お見立て」 林家 彦いち
「花見の仇討」 入船亭 扇遊
仲入
「天狗裁き」 柳家 三太楼
「新版 蜆売り」 立川 志の輔
朝也、少し前まで、座布団をひっくり返していた。 大分というので調べた ら大野町の出身、27歳、2002年5月春風亭一朝に入門、2005年11月二ッ目。 「湯屋番」、大熊(大工の熊)の居候で、名うての道楽者と評判の若旦那が、湯ウ 屋なら「行くよ」という。 その顔が、口をすぼめ、鼻の下を長くして、へん な声を出した。 湯ウ屋の仕事は、まず「外回り」、女の子を三人ほど連れて全 国の温泉に入浴剤が入っていないか調査に回るのかと訊いて、きたな車での木 っ端集めと分る。 さてその次にひけえし(仕事)は…から、弁天小僧の声色を やり、「煙突掃除」とわかって、煙突小僧煤之助とやる。 サゲは、番台から落 っこちたところでやめないで、着物を着ていかれた客に張り倒されて、順々に 残っている着物を着せて帰し、最後の一人は、ハダカで帰します、というのま でやった。 まずまずの出来。
彦いち、ピンクの羽織、茜色の着物(余談だが細君は講談の神田茜の由)で、 走るように出てくる。 面白い顔、木久蔵の弟子、36歳、2002年に真打。 海 外で(米軍基地やアメリカンクラブでも)英語の落語をやっているそうだ。 「パ ンツ破けた」「またかい」は、翻訳が難しい。 だが「やきもち」のような人間 心理は、万国共通で、わかるようだ。 可愛がられていた赤ん坊、弟が出来 て、jealousyを感じた。 母親のnippleにpoisonを塗っておいたら、翌朝、 弟が死なないで、daddy died. こういうjealousy storyは、わかる。 大受け になる。 Vancouverでやったら、「それは、隣のダンナさんですか」と来た。 「南京玉すだれ」miracle bamboo blindを持って行って、New Yorkの空港の 税関でつかまり、説明に演じてみせ、“I can make London bridge”に、ピス トルをさげた警官が手拍子したという、ちょっと怪しい話が愉快だった。 「日 本でいう“吉原”」と、「お見立て」に入った。
上野の山「花見の仇討」地図 ― 2006/03/04 07:06
扇遊「花見の仇討」、「この国は好きです、自然は…」と、花の話に入る。 日 本人はパッと咲いて、パッと散る、命の短い桜が好き。 花見の趣向をやる場 所を、上野の擂鉢山のてっぺんにする。 擂鉢山は、清水堂の北側の小山、五 条天神の旧地で天神山というのが正式の名で、前方後円墳の跡だそうだ。 「長 屋の花見」も、ここ。 「盲木の浮木、優曇華の花」という仇討の決まり文句、 扇遊は「もっき」といったが、やはり「もうき」ではないか。
上野の山に登るのには、入口がいろいろある。 巡礼兄弟に扮した二人は、 正面の御成街道から。 これは寛永寺の徳川家廟所をお参りする将軍や諸大名 が通った道、上野広小路の方だろう。 ここで仕込み杖をついその頭に当てて しまった、お酒の入ったサムライ、近藤(なぜか落語の武士は近藤が多い)にか らまれる。
六十六部に扮した半ちゃんが、耳の遠い本所のおじさんにつかまるのは、下 谷の広徳寺門前。 今の台東区東上野4丁目にあった寺で、震災後、練馬区桜 台6丁目に移転して現存。 その墓地には、なんと柳生但馬守宗矩、柳生十兵 衛三厳、柳生飛騨守宗冬の墓があるそうだ。 下谷の広徳寺、昔は境内もかな り広かったようで、その門を左甚五郎がこしらえたと「王子の幇間」「甚五郎」 「双蝶々」などに出てくる。 四足門で、寸足らずの低い構えだったという。 ただし「たいしたもんだよ広徳寺の門」という俚諺は、たびたびの大火に焼け 残ったために言われたものだが、大正12年の関東大震災であっさり焼けてし まった、とは、今日ずっと世話になった『落語地名事典』北村一夫さんの弁だ。
扇遊は、楽しそうに演じて、花見の季節間近を感じさせた。
聴きながら、ふと将軍家の廟所のある上野の山で、こんな茶番をやって騒い でもよかったのかと思った。 佐藤光房さんの『続 東京落語地図』(朝日新聞 社)に答があった。 この噺の原作、江戸末期の滑稽本作者滝亭鯉丈(為永春水 の兄)の『花暦八笑人』では、飛鳥山。 せんの金原亭馬生も飛鳥山でやり、飛 鳥山に行くには本郷口、根岸口があると言っていたが、円生は上野の山、おじ さんに会うのは御徒町でやっていたという。 江戸時代には上野の山では鳴り 物入りの花見は許されず、上野の山を舞台にするのは、明治になって、それに とらわれずにすむようになってからの改作だそうだ。
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