桂吉弥の「池田の猪買い」2008/07/25 05:35

 桂吉弥、評判のよかったNHKの朝ドラ『ちりとてちん』で、いい役をやっ たらしい。 長年、朝の早い工場通いだったわが家は、朝ドラを見る習慣がな いから、知らなかった。 TBSの落語研究会に出てきて、遠慮勝ちに渋谷のほ うの放送局のバブルで、そっちこっちに出させてもらっている、今日もバブル に乗って7月なのに真冬の噺を演る、「こんにちは、お寒いこってすな」と、「池 田の猪買い」に入った。 吉朝の弟子だそうだ。 『米朝上方落語選』を見た ら、けっこう忠実に演っている。

 冷えて困る、少々足りない男(喜六というらしい)が、薬食いがいい、それ もトレトレの猪の身がいいと、甚兵衛さんに教わって、池田まで買いに行く。  自分に三百匁、甚兵衛さんに二百匁、二円もあれば充分というのを、立て替え てもらおうとして、「この前貸した五十銭、あれあんなりになってんのやで」「あ んなもん、またおついででよろしい」「そらこっちがいうことや」というのが、 可笑しい。 丼池筋(どぶいけすじ)から池田まで、その道中の言い立てが一 つの聴かせどころ、女房が産気づいて、急いでいるという人を捉まえて、しつ こく道を尋ねるのも、笑わせどころだ。 「問うは当座の恥、問わんだら末代 の恥ちゅうことがいうてある」と教わってきて、「問うは豆腐屋の損、問わんだ ら松茸の恥」だと。

 喜六と山猟師の六太夫さんとの、少しずれた、とぼけたやりとりも、可笑し い。 大暑に寒い時期の噺を額に汗して熱演した吉弥だったが、大師匠米朝、 亡くなった師匠の吉朝の、一門の正統な芸を継いで、大いに期待が持てる、と 思われた。

『当マイクロフォン』<等々力短信 第989号 2008.7.25.>2008/07/25 05:37

 昨年5月の第975号「「俳句のすすめ」小説」で『俳風三麗花』(文藝春秋) を紹介し、「直木賞か」と書いた三田完さんが、直後に直木賞候補になった時は、 こちらまでドキドキしてしまった。 予言的中とはいかなかったが、このとこ ろ『乾杯屋』(文藝春秋)、『当マイクロフォン』(角川書店)を相次いで刊行、 ますます油が乗ってきた。

 「東京八王子市にお住いの北村セツさん、こんばんは、中西龍でございます。 お変わりありませんか。お葉書、ありがとう存じます。八十歳を迎えられた由、 お元気でなによりです。」 小説は『当マイクロフォン』を自称したNHKの中 西龍(りょう)アナウンサーの人生を描き、独特の語り口と錆びた声、熟成の 秘密に迫っていく。

 私は三田完さんがNHKで歌謡番組のディレクターやプロデューサーだった ことを知らなかった。 小説に二村淳という名で登場する若手が、年齢や祖母 が虚子門下の俳人という点から、三田完さんなのだろう。 中西龍は定年まで 一年半を余して退職したが、毎夜9時45分からの『にっぽんのメロディー』 は全国に熱狂的なファンがいるため、前代未聞のケースとしてフリーで担当を 続けていた。 二村は退職早々の中西に、担当の『昼のプレゼント』に出演し てもらったのを契機に、親しく付き合うようになる。

 身近な田園調布中央病院、奥沢、明治学院から、たちまち物語に引き込まれ てしまった。 中西龍は奥沢に住み、冒頭、転院して命を落とす病院で、私は 明治学院中学入学前の小学生の時、扁桃腺の手術を受けた。 昭和3(1928) 年、龍は苦学力行の後の港区長の息子に生れ、5歳の時に弟を産んだ実母に死 なれて、継母のもとで拗ねて育つ。 敗戦の前年、父は兵役を避けて龍を千葉 の農業学校に入れるが、果樹園の果実を盗み、女優水戸光子のブロマイドを寄 宿舎の机に隠していて、放校になる。 新宿で戦後派(アプレゲール)を体現 して無頼な暮しをしたりしたが、父親が陰で手を尽し、明治学院大学英文学科 を経て、NHKに就職する。 3か月の研修後、妻を伴い熊本放送局に赴任した。  内縁の妻は足抜けした新橋烏森の枕芸者だった。 鹿児島、旭川、富山、名古 屋と、遊郭やバーのママの部屋に入り浸り、女や地回りと揉め、生放送に遅刻 する。

 生来の詩人は、地方局を流転した破天荒な人生と女達への悔悟を肥やしに、 ナレーションの職人としての鍛錬を重ねた。 その声と語りはリスナーを魅了 し、ついに東京に呼ばれる日が来る。 終盤、組織と人間の問題は、作者自身 にも及ぶ。