「貞門」から「談林」へ、そして「芭蕉」誕生2008/07/18 06:56

 藤堂良忠が死んだあと6年間の松尾宗房の動向が残っていない。 ただ、寛 文12(1672)年29歳の宗房が、伊賀を代表する37人の句をまとめた俳諧集 『貝おほひ』を編んでいるので、伊賀の俳壇をまとめる立場になっていたのだ ろう、という。

 ここで松尾宗房は、『俳諧』一筋に生きる決意をし、花のお江戸に出る。 江 戸は空前の『俳諧』ブームであったが、実績のない江戸で宗房は受け入れられ ず、京都の流派ならではの「貞門」の大家北村季吟の花押のある(一種、免許 皆伝のような)『埋れ木』を示すことによって、ようやく一目置かれるようにな っていく。 だが江戸の『俳諧』では新たな流行が始まっていた。 庶民的な 言葉で、奇抜な句を詠む「談林俳諧」である。 たとえば〈すりこ木も紅葉し にけり唐がらし 西山宗因〉 江戸の気風にも合う、自由な風を感じた宗房は、 「貞門」から「談林」に鞍替えし、俳号も「宗房」から「桃青」に改める。 32 歳、延宝3〈1675〉のことだった。 〈行雲や犬の欠尿(かけばり)むらしぐ れ〉 俗の極み、「談林」の面白さに引きつけられた桃青は傑作をものし、句の 採点を行う点者の依頼も殺到する。 人々はその点数に賭けをするようになり、 桃青は次第に違和感をもつようになって、苦悩の日々を過す。

 桃青は、中国の古代思想『荘子』の、奇抜な例えで人生のはかなさを伝える 「胡蝶の夢」について、その価値は例えではなく、人生をはかないと感じる考 え方にあると目覚めるのだ。 延宝8(1680)年、37歳で日本橋から深川に転 居、閑静なものに生活を変える。 そして庵にあった「芭蕉」を名乗ったのであ った。