「ブラタモリ」三田・麻布の内、麻布2009/11/23 07:21

広尾にいた頃、麻布・六本木界隈を散歩して悟ったことは、坂の上の、特に 南面にお金持の大きな家が並び、坂を下りると庶民がちまちまと住んでいるこ とだった。 上と下、明白な貧富の格差、「坂の下の町」の物語だ。 三田から 麻布十番へ、下りて行ったタモリ一行が目にしたのは、銭湯のある、まさにそ うした町だった。 この古川沿いのあたりは、麻布古川、何を隠そう落語「小 言幸兵衛」の長屋のあった場所なのである。 「黄金餅」の麻布絶口(ぜっこ う)釜無村(いかにも貧しそうな地名だ)も、永坂を下り、十番へ出て、大黒 坂から一本松というから、この近くだろう。

元麻布の「がま池」は、散歩のついでに何度か見に行ったことがあった。 西 町のインターナショナル・スクールのあたりから、細い道を下ると、不思議な 空間が現れるのだった。 釣堀の名残りか、六本木に多かった金魚屋さんの池 なのかと思っていた。 地図で見ると、ホーマット・プリンスというマンショ ン(元麻布2-10-25)に囲まれていて、簡単に見られなくなったのは残念だ。 

 番組に出て来た山崎主税助(たかしのすけ)にまつわる「がま池伝説」も、 十番稲荷神社の上之字御守(火事除け)も知らなかった。 再び俵元昭さんの 『港区史跡散歩』を見たら、ちゃんと書いてあった。 五千石の旗本、交代寄 合役山崎家の屋敷、夜回りに出た下僕二人が、池に棲む大蟇(がま)に食い殺 された。 当主治正は大いに怒って退治を決意した時、その夢枕に白衣の老人 と化した蟇が現われて罪をわび、その償いに防火につくすと誓った。 その後 文政4(1821)年4月2日、古川岸から火事が起こって山崎家に迫ったが、く だんの蟇が現われて、口から水を吹き、山崎家を守りおおせた。 山崎家は「上」 の一字を記した「上(じょう)の字様」という防火のお札を出した。 後に山 崎家が移転して家来筋の清水家より、昭和2年からは末広神社でお札が発行さ れ、末広神社は建物疎開で竹長稲荷に合併されたという。 その竹長稲荷が、 現在の十番稲荷神社(麻布十番1-4-6)、タモリが行ってお札を受けた神社なの だった。

 俵元昭さんによると、「がま池伝説」には別の説もあるが、いずれにしても、池は火事に役立つから埋めるなという唱導説話なのだそうである。 池をマンションで囲むのが、「埋める」に当たるかどうかは、微妙なところだ。