扇辰の「秋刀魚火事」 ― 2009/11/06 07:13
仲入後、いよいよ白熱してまいりまして、一杯のお運びで出演者一同気も狂 わんばかり、と扇辰は出て来た。 黒紋付の羽織を脱ぐと、桃色(鴇色か、サ ーモン・ピンクか)の着物、頭が白くて優しい顔の扇辰、女の人がちんまり座 っているように見える。 ここまで三つ聞いておわかりのように、落語は、く だらない噺ばかりで、人生の役に立ったり、人に勇気を与えたりするものじゃ あない。 先日も寄席で、この噺をやったら、一番前に座っていた品の良いご 夫婦が、下げを聞いて顔を見合わせ、異口同音に「くだらない」と言った。 そ のショックを、まだ引きずっている。
長屋の連中が、大家のところへ、隣の商人、けちんぼうの油屋のことで、お 知恵を拝借したいとやって来る。 長屋で「ひよしがり(潮干狩)」に行って取 ってきた(日本中のを取ってきたかと思うほど)沢山のハマグリの殻を道に撒 いておいたら、しみったれの番頭が足を切るからと苦情を言って来て、捨てて やるから箱に入れてウチの裏口へ持って来いと、集めさせた。 その年の暮、 ひび・あかぎれの膏薬を売り出した。 買ってみたら、懐かしい気がした。 ハ マグリの殻に入っていた。
子供が店の塀に落書きをしたら、番頭が苦情を言って来た。 子供たちに、 炭を持ってきて、庭の真っ白い石に落書きをすればいいと言う。 子供たちが 炭を持って行くと、今は仕事で忙しいからと、炭だけを預かる。 暮に、物置 に炭俵が出来ていた。
店のお嬢さんが裏の空地に、珊瑚のかんざしを落としたという。 草ぼうぼ うの空地だ。 見つければ、莫大なお礼をするというので、長屋の連中がきれ いに草を刈った。 かんざしは出てこなかった。 後でよっちゃんが、旦那が 番頭の頭の働きを褒めているのを聞いた。
なんとか、仕返しをしたい。 大家の計略は、相手は油屋だから、火事が一 番恐い。 長屋三十六軒、晩飯の支度の刻限に、太って脂の乗った秋刀魚を三 匹ずつ焼いて、その煙を裏口から煽ぎ入れ、声のでかい熊さんが「これじゃあ 足りないよ、かしだ、かしだ」と叫ぶ。
油屋は、夕食の時間だった。 おかずはない。 せめて、沢庵ぐらいと、誰 かが言う。 旦那は、沢庵を切る役を、栄助に命じる。 薄く切るのに、建具 屋上がりで腕がいいのだ。 そこへ、いやに煙が入ってきた。
長屋連中、店の中がシンとしているので、見に行くと、店の者がお膳を並べ て、大根おろしで飯を食っていた。
なるほど「くだらない」。 今まで「秋刀魚火事」を聴いたことがなかった理 由がよくわかった。
鯉昇の「質屋庫」 ― 2009/11/07 00:16
先日静岡で震度5の地震があった。 鯉昇が静岡出身というのは、前にも聞 いたことがある。 お城の石垣が崩れた。 近年、予算をつけ、現在の技術の 粋を尽して、修復したところだけが崩れた。 昔からの部分は、崩れなかった。 骨が丈夫になる薬というのを宣伝している。 あれは、いつ結果が分かるの だろうか。 骨上げの時に分かる。 鯉昇が頬骨の張ったあの顔で、表情を変 えずに言う、こういうくすぐりが、たまらなく可笑しい。 鯉昇は好きだ。 師匠(先代春風亭小柳枝)のところに住み込んで、庭の草取りをした。 食 べられる草と、食べられない草を覚えた。 季節になると質屋へ使いに行き、 着物(寄席の衣装)を入れ替える。 利上げをして、流さない。
「質屋庫(くら)」、質屋の三番庫にお化けが出ると、銭湯で噂になっている。 主が番頭に、前の離れの座敷で寝ずの番をして確かめてくれと頼むと、お暇を 頂きたいという。 では強そうな人をつけようと、出入りの熊さんを、小僧の 貞吉が呼びに行く。 旦那が呼んでいるというので、叱言かと思った熊さん、 先にお店の酒や沢庵を樽ごとちょろまかした話を白状してしまう(ここがとて も面白いが、略)。 強そうなといわれて熊さん、彫り物自慢で強がり、右手に は昇り龍、左手には降り龍、背中には訳あって三毛猫、などという。 雨漏り、 泥棒ならというが、お化けには弱かった。 それでもやむなく、二人で寝ずの 番。 料理が出ていて、箸がないのを紐で結び合った二人で取りに戻ったりす る。 せっかくの刺身の味が、ぜんぜんわからない。
丑満時、二人がこっくりしていると、乾の方角に火の塊がポッと出て、腰、 抜けましておめでとう。 相撲太鼓が鳴り、行司が「釈迦ヶ岳、釈迦ヶ岳、小 柳、小柳」と呼び上げる。 相撲の羽織と、まわしを預かっているのだ。 小 箱の蓋が開いて、掛軸がするすると立ち上がる。 「東風吹かばにほひおこせ よ梅の花主なしとて春を忘るな」と菅原道真公の登場。 掛軸は横丁の藤原様 の質草だった。 「番頭、横丁の藤原に言って、利上げをするように。 また 流されると困る」
モラヴィアの『軽蔑』発端 ― 2009/11/10 07:20
『池澤夏樹=個人編集 世界文学全集』で『マイトレイ』の第二集第三巻には、 イタリアの作家アルベルト・モラヴィアの『軽蔑』(大久保昭男訳)も入ってい る。 『マイトレイ』に魅了された勢いで、これも読み始めたら、ずんずん引 き込まれてしまった。
まだ30歳にならないリッカルド・モルテーニは演劇界で将来を嘱望された 劇作家、美人タイピストのエミーリアと結婚し、一間きりの家具つきの部屋に 住んでいた。 貧しかったが、エミーリアは整頓好きで、清潔でこざっぱりし た空気をこの生活にもたらし、妻が夫に示すことのできる最良の愛情のしるし を与えてくれていた。 二年が経って、リッカルドはエミーリアのために、高 額なアパートを分割払いで買う。 初めてアパートを見に行った日、ふたりの 愛の交渉のなかで、いつも控え目で、ほとんど臆病なくらいの妻が、リッカル ドに体を押しつけると低い声で接吻を求めてきた。 むきだしで、物音がよく 響き、まだ塗ったばかりのニスや漆喰の匂いのする部屋の、冷たい薄暗がりの 中の、埃っぽい床の上で、ふたりは異常で激烈な抱擁を交わす。
入居まで二か月があり、リッカルドはアパートの金を稼ぐために、心ならず も映画のシナリオを書くことにする。 新居に移った翌日、リッカルドとエミ ーリアは、映画プロデューサーのバッティスタとレストランで夕食を共にし、 宵の残りを彼の家で過すことになる。 バッティスタの赤い細長い高級車は、 二人乗りだった。 バッティスタはエミーリアに乗るように勧め、リッカルド もそうするように言い、タクシーで後を追うことにする。 袖なしで、襟元が 大きく開いた黒絹の、彼女のもっているたった一着の夜会服姿のエミーリアの、 静かで落ち着いた美しい顔に、何かの不安と一種の当惑が滲んでいるのを、リ ッカルドは見た。 それが、二人の躓きの始まりだった。
妻エミーリアの軽蔑を招いたもの ― 2009/11/11 06:46
引越しの日から、エミーリアは寝室を別にした。 リッカルドは変らず妻を 愛しているのに、妻は夫を愛していないばかりか、軽蔑さえしているようなの だ。 そして、リッカルドが、そのわけをいくら質しても、エミーリアはいっ さいの説明を拒んだ。
リッカルドは、映画のシナリオを書く仕事のために、美しい妻エミーリアを 無意識にしても利用しようとし、プロデューサーに対して追従と思しき態度を とった。 それが結局は妻の軽蔑を招いたらしい。 追従は、それがエミーリ アの願望にひそかに応えるものであったからこそ、その内心の願いを唆(そそ) るものであったがゆえに、いっそう侮辱的であったかもしれない。
大久保昭男さんの解説によると、モラヴィア(1907-1990)の根底には、つ ねに一貫して、人間とは何か、生きるとはどういうことかを問おうとする視点 があり、その軸となったのが性の問題だった。 モラヴィアは、今日の人間と 社会を描くうえで性について語ることを必要としている時にそれを避ける作家 は、たとえば、政治について語るべき時になお政治について語るのを控える市 民のようなものだ、と述べたという。 性と愛をテーマとしながら、重たくて 不条理な、その不可能について書かなければならなかったパラドックスとも見 えるものを、大久保昭男さんは作家の意図を超えた時代のためであるという他 ない、とする。 モラヴィアの作品で目立つ、主役がほとんど積極的、能動的 な女性であり、それを前に、男はとまどい、うろたえるばかりというのも、時 代の動向を先取りしていた結果ではないか、と。
モラヴィアの妻の愛人 ― 2009/11/12 06:47
映画プロデューサーのバッティスタが、リッカルドに依頼してきた二作目の シナリオは、ドイツ人のラインゴルト監督を起用した『オデュッセイア』だっ た。 バッティスタは自分のカプリ島の別荘に、リッカルドとエミーリアが滞 在して、シナリオを書けばいいという。 監督は近くのホテルに滞在する。 カ プリへの道中も、バッティスタはエミーリアとスピードの出る赤い高級車で、 リッカルドはローンで買った小さな実用車で監督と行く。
監督の『オデュッセイア』解釈は、こうだ。 ペネロペは、その無遠慮な求 愛者たちに対して、オデュッセウスが男として、夫として、王として、断固と して対処しなかったために、彼を軽蔑している。 その軽蔑がもとで、オデュ ッセウスはトロイの戦役に出かける。 そして自分を軽蔑する妻が待っている 郷里への帰還を、出来るだけ遅らせる。 ペネロペの尊敬と愛を取り戻すため に、オデュッセウスは求愛者たちを殺す。 その解釈はリッカルドに、当然エ ミーリアとの関係を思い起こさせた。
事実は小説より奇なりである。 モラヴィアの三人の妻のうち最初の妻は、 作家のエルサ・モランテだった。 夫婦として25年暮らした。 モラヴィア はモランテを愛し、その作家としての力量を高く評価していたが、その無類に 強烈な個性には辟易して、二人の関係は次第に冷えてゆく。 モランテに愛人 ができる。 相手はイタリア映画界の巨匠、あのルキーノ・ヴィスコンティだ った。 モラヴィアが「大層な美男、芸術と人生の二つながらの達人」と言っ ているそうだ。 モランテは朝になるのを待ちかねるように、ヴィスコンティ の館へ出かけ、まる一日を過し、夜更けに帰宅、もう寝ている夫モラヴィアの ベッドの端に腰掛けて、ヴィスコンティ邸でのその日の出来事、愛人の情熱の さまを語って聞かせる。 モラヴィアはじっと黙って聞いていたという。 『軽蔑』は、モラヴィアの悩みと悲しみの投影であった。 エミーリアは、 モランテだったのだ。
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