「秀山祭」と初代吉右衛門の俳句2010/09/19 06:37

15日、新橋演舞場の「秀山祭九月大歌舞伎」夜の部を観た。 チケットを頂 いたからで、歌舞伎はチケットを頂かないと観ないところが、情け無いといえ ば情け無い。 「秀山祭」の名からして、分からない。 「秀山」は初代中村 吉右衛門の俳号で、2006(平成18)年9月、その生誕120年を記念して、二 代目吉右衛門、九代目松本幸四郎らによって第一回「秀山祭」が催され、以後 現在まで秋の歌舞伎の定番になったという。 晩年松本白鸚になった八代目幸 四郎と初代吉右衛門の娘・正子の間に生れたのが、兄・現在の九代目幸四郎と、 その弟で初代の養子にもなった二代目吉右衛門だ。 二代目から見れば、初代 は父であり、祖父でもある。 九代目幸四郎の子が、七代目市川染五郎。

私はごく幼い時に、よく祖母や母に歌舞伎に連れて行かれたから、初代中村 吉右衛門や六代目尾上菊五郎を観ていた。 六代目が亡くなったのは、1949(昭 和24)年7月10日だそうだから、8歳になるより前に歌舞伎に行っていたこ とになり、ご観劇の皆様にさぞやご迷惑をかけていたことだろう。

上に「秀山」は初代中村吉右衛門の俳号で、と書いたが、初代が「ホトトギ ス」で師事した高浜虚子は、吉右衛門で名が通っているのだから吉右衛門のま まがいいでしょうと言ったとかで、『吉右衛門句集』など句集三冊を刊行してい る。 どんな句を詠んだのだろうか。 ネットで拾えたのは、つぎのような句 だった。

1886(明治19)年、浅草象潟町(浅草寺の裏手)の生れで、浅草神社に句 碑がある。

女房も同じ氏子や除夜詣

ほかに 、 台風の去つて玄界灘の月

一茶忌の句会すませて楽屋入

久々の下り役者や近松忌

顔見世の楽屋入りまで清水に

清水の坂の途中にしぐれけり

白粉の残りてゐたる寒さかな

どこやらで逢ふた舞妓や冬の霧

羽子板をおくる舞妓の名をわすれ