『小さいおうち』、明るい「戦前」2010/09/27 07:10

 直木賞を取った中島京子さんの『小さいおうち』(文藝春秋)を読んだ。 昭 和5年に山形の尋常小学校を卒業して、東京へ女中さんに来たタキさんは、13 歳だった。 タキさんが大好きな赤い三角屋根の「小さいおうち」、東京西郊の 平井家を辞したのは、昭和19年3月だから、27、8歳だったことになる。 戦 後は両親を亡くした甥の親代わりとなり、その一家と茨城で暮らした。 年取 ったタキさんは「心覚えの記」をノートに書いており、甥の次男の大学生健史 が時折読んで、おばあちゃんの思い出は能天気すぎる、昭和10、11年から戦 争中にかけての時代が、そんなに明るいわけはない、と非難するのだった。

 昭和39年生れの中島京子さんは、当時の婦人雑誌などを詳しく調べて、『小 さいおうち』に描いたのだそうだ(8月28日、BS2週刊ブックレビュー)。 私 は昭和16年の生れで、昭和20年5月の空襲が物心ついた最初の記憶だから、 ここに描かれた戦前・戦争中のことはまったくわからない。 ただ、以前「等々 力短信」に「明るい「戦前」」という題で書いたことがあったのを思い出した。  1999(平成11)年11月25日の第861号で、山本夏彦さんの『誰か「戦前」 を知らないか』(文春新書)を紹介したのだった。 山本さんは「戦前戦中真っ 暗史観」が為にするウソだという自説を展開する。 電気冷蔵庫(戦艦武蔵・ 大和に冷凍室がなければ千何百人は賄えぬ)、電気掃除機、クーラーは、すべて 戦前からあった。 昭和19年11月の空襲まで東京は平穏だった。 米、味噌、 醤油、酒、ビールは配給だったし、その量は次第に減るし、不安ではあるが飢 えるに至らなかった。 空襲があるまではそば屋、おでん屋に至るまで何とか 営業していた。 昭和18年までは麹町の鰻屋・丹波屋、芝口の牛鍋屋・今朝 も営業(永井荷風日記)。 向田邦子も期せずして書いている、「私たち戦時中 の女学生は、明日の命も知れないのに、箸がころんでもおかしいと笑い転げて いた」と。