錦夫人は、福沢に申訳ないと2011/08/24 05:33

お墓について、福沢がそんな考えを持っていたにもかかわらず、今は麻布善 福寺にある福沢の墓は、相当に大きく建てられた。 初めは錦(きん)夫人の俗 名を朱で入れた。 その時、夫人は葦原雅亮に、こう言ったそうだ。

 「先代の墓石が建つて嬉しいと言はねばなるまいが、私は嬉しいどころか、 こんな困つたことはありません。私が先代の墓は遺言通りにしてほしいといく ら申しても、塾の宿老たちがあのやうにしてしまはれた。私がそれでは困ると 申すと、塾の人たちは、御夫妻同会ですから少しは大きくても我慢して頂きま すといつて、肯き入れてくれなかつた。私は先代の在世中、無理と思ふやうな ことを言はれた覚えは一度も無く、又先代の言ふことを諾(うべな)はなかつた 覚えも一度もありません。それに死んでしまつて叱かられぬからといつて、あ れほど幾度も言はれて居たことを実行し得なかつたことは、誠に申訳ない。彼 の世にいつて何と申訳してよいやら。」

 次の話も、初めて知った。 大正4年、長男の一太郎夫妻が中津に行き、明 蓮寺内、金谷村の三昧(さんまい) 、竜王の浜にある福沢家の墓をまとめて向地 で再火葬して、一つの骨壷に入れて帰京、上大崎常光寺の「福澤氏記念之碑」 の左側に改葬した。 「福澤氏祖先之墓」という碑銘は、老僧つまり葦原雅亮 が揮毫し、右側は「大正四年建之」となっている。 この碑(墓石)も、昭和 52(1977)年に福沢の墓が、常光寺から麻布善福寺に改葬された時、いっしょに 移されたと思われるが、今度善福寺に行ったら確かめてみたい。

 そして、高仲熊蔵・はな夫妻の墓についての説明がある。 夫妻には、男の 子が二人あって、福沢家でも不愍に思って、可愛がっていたが、兄は夭死、弟 は脱線、「あゝいふ正直な父母の子供でも、宿業なればどんなことにでもなる。 これが娑婆といふものである」とあった。