猪木武徳さんの「福沢の国法と道徳」後半 ― 2012/01/18 04:25
福沢では、国法と道徳に対する見方が大事だ。 『学問のすゝめ』初編に、(政 府の官吏は)「人の貴きにあらず、国法の貴きなり」と、国法、法の支配が貴い と言う。 自由な法の概念を想定している。 『学問のすゝめ』六編は、題が 「国法の貴きを論ず」。 赤穂の義士と唱えるのは間違いで、私裁(リンチ)だと いう。 共通善に適さない。 この議論は荻生徂徠のそれに似ている。 公と 私の狭間で、人間は苦しむ、その尊さを理解している。 日本人は私を偏重し ている。 『文明論之概略』第六章「智徳の弁」は、私徳、公徳、私智、公智 を分類して論ずる。 私徳より公徳、私智より公智が、重要だとする。 物事 を判断するについて、その優先順位が大切。
ここから猪木さんは、西欧では国法が公と私のジレンマを克服するものとし て考えられているという話をした(西洋倫理学と福沢の「徳義」論の近さ)。 ギ リシャ悲劇『アンティゴネ』や、アリストテレスの例を挙げたが、(学者先生ら しい話は私には無理)略す。 キケロは『友情論』で、国法を犯した友を弁護す るかを論じた。 福沢の『明治十年 丁丑公論』は、西郷隆盛批判に憤った、立 派な友情の書。 西郷の抵抗の精神を論ずる。 地方の治権(行政)を地方の人 民に分与するべき(地方分権)。 旧士族の力を地方自治に生かすべき、地方に 永住して、地方の情報を得て、働くべき。 西郷に対する弁護の根拠は、公の 理念(を目指す「抵抗」)、公徳という友情で結ばれた議論。 国民の官に対す る依頼心、中央集権を無批判に受け入れるのを慨嘆する。 それはデモクラシ ー(公智を持った人の共同体)の基礎を危うくする。 福沢はデモクラシーを強 調した思想家である。
最近のコメント