再録「人情噺 銀座ハゲ天」2013/01/02 07:37

暮の水上瀧太郎の話の関連で、2002(平成14)年10月25日の「等々力短 信」第920号に、「人情噺 銀座ハゲ天」というのを書いていたのを、再録す る。 水上瀧太郎の阿部章蔵が、ひとびとに好かれ、信頼された所以の一端が 垣間見られるからだ。 なお、渡辺亘さんが亡くなられたことを『福澤手帖』 153号(平成24年6月20日発行)で知った。 よく土曜セミナーでお見かけ していた。

等々力短信 第920号 2002(平成14)年10月25日 人情噺 銀座ハゲ天

 十月、前菜は「富山白海老のから揚げ」、メインは「吹き寄せ(栗、銀杏、し めじ、薩摩芋、百合根、三色ピーマン、茶そば)柚子胡椒塩」「きのこ五種五味 (松茸、舞茸、榎茸、椎茸、えりんぎ)」「蓮餅の茶巾二種」「翡翠きす」「芝海 老と乾し葡萄の菊香かき揚げ」と定番「はぜ」。 天ぷらの銀座ハゲ天から毎月 来るDMはがきの広告面にある今月の献立である。 店名にちょっと抵抗がな きにしもあらずなので、常連客ではない。 社長の渡辺亘さんが大先輩で、学 校の行事をお手伝いした時、私の本を差し上げてから、「はがき通信」のつなが りで、毎月送って頂くようになった。

 記事面には、毎年テーマをしぼって、天ぷらについての、いろいろな情報が 書かれている。 昨年は「新しい天プラ」、今年は「ハゲ天の七十五年」。 昭 和3年、渡辺亘さんの父上による創業の経緯は、興味深いものだった。 水上 滝太郎(阿部章蔵)さんの『貝殻追放 抄』(岩波文庫)「我が飲屋」の、麹町富 士見町の天ぷら屋「たから」である。 「主人は昔私の同僚(明治生命)だっ た。ませた口をきくかわりにそろばんも達者という若者だったが、上野の宿屋 に養子に行き、間もなく地震(関東大震災)で叩きつけられた。家業がなくな れば養子はいらない。離縁という事になったが、本人同志は別れないという。 いろいろ揉めたあげく、連て逃げてもいいでしょうかと相談に来たから、よか ろうと答えた。廻り廻って天ぷらやになった。素人のくせに器用で、家は狭い が魚がよく、粉がよく、油がよくてしかも安い。泉鏡花先生が来る。岡田三郎 助先生が来る。久保田万太郎さんが来る。喜多村緑郎、花柳章太郎という顔も 見える。主人もすっかり天ぷらやさんになり切って、若禿の頭を光らせ、一生 懸命だ。この方が会社勤めよりも働き甲斐がありそうだ。皆さん一度ためして 下さい。/この原稿を清書して都新聞に届けたら、ゆっくり飲み廻ろう。我飲 屋に幸あれ。(昭和5年元日掲載)」

 開店の昭和3(1928)年は昭和大恐慌の年、今と同じ不景気で、出前の天丼 が日に三杯しか売れないこともあり、早くもその年の暮には資金繰りに困る。  水上滝太郎さんに150円を借りて、年を越した。 天丼の値段が30~50 銭の頃、日に2円も売れない店が閑な夏場をしのげるはずもなく、翌年秋、夜 逃げの相談に行くと、場所が悪いのだから「銀座へ逃げろ」と、大卒初任給が 50円の時代に、また何と2千円を無利息無担保で貸してくれた。 おかげで 昭和5年9月、銀座の現在地に出る。

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