「大元神楽」と「神職神楽等演舞禁止令」 ― 2020/06/08 07:15
俵元昭さんのお手紙のもう一つのトピックスは、2018年1月25日の「等々 力短信」第1103号に「俵元昭さんと「石州神楽」研究賞創設」を書いた時、 友人に「明治の神道国教化以来、神職が神楽舞を禁じられた」というのはどう いうことかと聞かれ、いろいろ調べ、俵元昭さんにもお聞きして、下記の日記 を書いた問題についてであった。
「王政復古」と明治の国家神道<小人閑居日記 2018.2.9.>
「国家神道とは何か」神社無宗教論<小人閑居日記 2018.2.10.>
神職神楽舞禁止令という法律<小人閑居日記 2018.2.11.>
結論を先に言えば、上記の問題について、第1回「大元・石見神楽 研究賞」 優秀賞受賞作、小川徹さんの「ふるさと浜田に生きる私の石見神楽論」が、石 見郷土研究懇話会発行の『郷土石見』113号(2020年5月)掲載された中で、 初めて以下のように活字化されたという報告だった。
「託宣や神職が演舞に関わる大元祭祀(大元神楽)は、明治6年(1873)1 月、太政官布告で達された「梓巫女、市子、憑、祈祷、狐下ケ、等の所業禁止」 いわゆる拝み祈祷、神がかりの禁止令や、明治3~5年(1870~72)に神祇官、 太政官、教部省から達された国家神道神職に対する取り決めにおいて、神職が 神楽等を演舞することを禁止され、取りやめなくてはならない状況となった。」 と。
小川徹さんの「ふるさと浜田に生きる私の石見神楽論」は、「大元神楽」に対 する誤解と大元祭祀について、こう整理する。 「大元神楽」とは、本来、石 見地方一円で執り行われてきた大元信仰に基づく式年祭のことであり、その中 には神事から神楽、地域の取り組みまで全てが含まれる。 つまり、式年祭の 中で演じられる神楽舞のみを指すものではない。 「石見神楽」は、邑智(お おち)郡で生まれた「大元神楽」が、石見地方各地に伝播したものというのは 誤解で、実際はあくまでも大元信仰を根底とする祭祀の中で舞われてきた舞(神 楽舞)が、現在の石見神楽で「儀式舞」「能舞」という舞の基となった。
石見地方の神社には、例大祭や各祈願祭といった数ある祭祀の中に、数年に 一度の大祭「式年祭(大元祭)」がある。 これは、大元信仰を基として、五穀 豊穣を寿ぎ、祖先に感謝し、氏子繁栄を祈ることを目的に行われた。 そして、 その祭りや舞を「大元神楽」「大元舞」とも呼んでいた。 大がかりな祭りにな るため、各郡あるいは近隣の神職組単位で執り行われていた。 江戸時代から、 既に、神へ向けての儀式的要素の強い舞と、ストーリー性のある面をつけた能 舞の二種類の舞を奉納する形式が定着していた。 儀式舞と能舞(神能)が行 われる最中に、神がかりと託宣の儀式が行われる一連の流れが確立されていた。 石見国の各郡が大きく時を違えず執り行った祭り(大元祭祀)であろうと考え られ、どこが起源であるという明確な証拠は現段階では存在しない。
そして、明治となり、最初に引用した太政官布告や神祇官、太政官、教部省 から達された国家神道神職に対する取り決めにより、神職が神楽等を演舞する ことを禁止された。 特に人の往来が盛んであった沿岸部の地域では、那賀郡 浅井村(現浜田市浅井町)に県庁が置かれ、当地出身の国学者、神道学者の藤 井宗雄が、県内神社取調のために出仕していたため、ことさら中央官職からの 達しは履行せざるを得なかったと推察できる。
このいわゆる「神がかり禁止令」や「神職神楽等演舞禁止令」の影響は、石 見地方に限ったことではなく、日本全国に及んだ出来事だった。 しかし、そ のような状況下、邑智郡や那賀郡の山間部では、達しを完全に履行することな く、託宣と神職の神楽への関わりを含む大元祭祀を残してきたため、その祭祀 形式が今日まで残されることとなったのである。
以上、私の関心のあった問題について、小川徹さんの論文を紹介した。
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