文明の岐路、緊急に国際協力体制の再建を2020/10/06 07:01

 つづいてゴルバチョフさんの「試練としてのパンデミックと21世紀の新思考」の「要旨の記事」を読んでみる。

 新型コロナのパンデミック(世界的な流行)で、おそらく人類は初めて、人間の幸福はみんなに共通している、ということを意識した。 それは、国家のレベルを超えたものだ。 今回の危機は、文明が瀬戸際にあることを示している。 対立から協調へと速やかに移行する必要性を改めて問いかけている。 人類は包括的な対応を一緒に練り上げる必要がある。 国際協力に踏み出し、より信頼できる国際安全保障システムをつくるためだ。 パンデミックによってもたらされる危機との闘いが、人々を救い、より大きなカタストロフィー(悲劇的結末)を防ぐための緊急の集団的行動を必要としているのは、明らかである。

 パンデミックの試練は、現在のグローバルな不均衡に根ざすもろさをあらわにした。 米国が経済的孤立主義に向かい、英国は欧州連合(EU)から離脱した。 富める国と貧しい国の間のギャップと、拡大する格差は、どの政府も一国では解決できない問題を生んでいる。

 パンデミックは、米国と中国の間の緊張の高まりから生じる新たな二極対立を顕在化させ、悪化させた。 今のロシアにとっても、新しい政治思考へと立ち返り、米中の二極対立体制を防ぐ外交を目標に据えることが賢明だろう。

 80年代末、「新思考」の原則は実際に生かされた。 米ソ首脳の関係において、そして冷戦終結という出来事の中で、その有効性を証明した。 困難なことではあったが、優れた協力の先例となった。 米ソが核軍縮で初めて重要な合意に達した後、人類は平和な未来の可能性を実際に意識して、呼吸を楽にした。

 「新思考」の理念は、世界政治の舞台へ復帰しなければならない。 世界は再び岐路に立っている。 国家のエゴイズムが生み出す本能に追随するのか、あるいは、文明は瀬戸際にあり、新しい世界にとって国家の相互の結びつきや相互依存が必要な時だと自覚するのか。 人類の未来は、この選択にかかっている。

「三田あるこう会」に参加させていただく2020/10/07 07:21

 3月から「三田あるこう会」に参加させていただいた。 毎月開催で500回を超す伝統ある会である。 以前から『三田評論』の「三田会だより」で見て、いい会だなと思っていて、機会があったら参加したいと考えていた。 たまたま旧知のMさんが会長さんになったというので、お願いをしたところ、出席率を重視する会だけれど、大丈夫かという確認があり、幹事役員方の厳重な審査を経て、入会を許されたのだった。 Mさんは推薦に、「博覧強記」という四字熟語を使ったらしい。 「博覧強記」などとは「針小棒大」で恥ずかしい、多少その気があるとすれば、もっぱらパソコンのおかげだ。

 ところが、新型コロナウイルスである。 辛うじて、3月1日の第520回例会が食事抜きで開催され、多摩湖から、トトロの森として知られる八国山緑地へ、都県境の尾根道を歩いた。 歩数計は13475歩だった。 新加入ながら、食事なしのため、入会の挨拶が出来なかった。 『三田評論』5月号の「三田会だより」で私の名前を見て、子供の頃ご近所だった先輩がメールをくれた。

 コロナの感染拡大で、4月、5月、6月、7月の回が中止となり、8月は休み、9月6日に第525回例会が行われた。 高輪ゲートウェイ駅に集合、品川東禅寺、高浜運河、ふれあい橋を散策して、天王洲運河の「T.Y.ハーバー」の風通しのよいテラス席で昼食をした。 地ビールを飲む若い人であふれていたが、厳格な当会は当分の間アルコール抜きだ。 ここも入会の自己紹介が出来るような場所ではなかった。 歩数計は12870歩。

 10月4日、第526回例会は「城下町川越」だった。 東武東上線川越駅改札集合。 自由が丘から、東上線直通「森林公園」行に乗って55分、途中なつかしい志木を通り、村山クリニックの看板を見る。 東上線沿線は、私が志木の高校に通っていた頃とは様変わり、住宅やマンションが林立、ベッドタウンと化しているが、若干は畑も残っている。 大和町が和光市になっていたのは、東横線直通の行き先で知っていたが、高校時代に居眠りしていて行ったことのある鶴瀬と、志木の間に、柳瀬川、みずほ台という駅が出来ていた。

「城下町川越」を「天領」と口走る2020/10/08 06:50

 東上線川越駅からは、路線バスで「札ノ辻」まで直行。 東京のGo To何とかも解禁された最初の日曜日とあって、けっこうな人出、バス直行は正解だった。 菓子屋横丁をグルッと回り、元町会館で集まる。 ここで、「川越」は元々?と聞かれて、私は「小江戸」が頭によぎって、「天領」だったんではと、とんでもないことを口走った。 「博覧強記」、形無しである。 第526回例会のテーマは、「城下町川越」だった。

 そういえば、前に来た時、二度も川越城の本丸御殿に行っていた。 事典を見たら、江戸に近い支城として重視され、幕閣重臣が配置された。 城主は1590(天正18)年入封の酒井重忠以後、酒井忠利・忠勝、堀田正盛、松平(大河内)信綱以下3代、柳沢吉保、秋元喬知以下4代、松平(越前家)朝矩以下7代、松平(松井)康英以下2代の、8家21代を数える。 うち松平朝矩以下7代が越前家分家の家門である以外は譜代大名。 領分高は最大17万石。 1638(寛永15)年大火の翌年入封の松平信綱時代、川越城再建拡張、城下町復興と町制整備、新河岸川舟運の開設、荒川治水、慶安総検地、武蔵野開発と野火止開鑿が行われて藩政が確立した。 そういわれてみれば、平林寺に松平(大河内)家の墓のあることをご家老の末裔である高崎の堤克政さんに聞いていたし、柳沢吉保も徳川綱吉の側用人として出世、川越藩主で老中格になったのだった。

 大沢家住宅に寄り、蔵造りの街並みを歩いた。 時の鐘、埼玉りそな銀行川越支店、亀屋本店(志木会で活躍した山崎嘉正さんの奥様と息子さんが歓迎してくれた)を経て、大正浪漫夢通りを川越大師喜多院へ行く。 以前、山崎嘉正さんアレンジの「志木歩こう会」で来た時、食事をした鰻の「小川菊(おがぎく)」には行列が出来ていた。

エベレストで亡くなった成田潔思君2020/10/09 07:03

 川越の町を歩きながら、Nさんと話をする。 5年下の山岳部OBだというので、私が志木高で同じクラスだった成田潔思君の話になった。 成田潔思君は大学山岳部のキャプテンだったが、卒業後の1970(昭和45)年、日本山岳会エベレスト登山隊に参加、4月21日に第一キャンプで体調を崩し、亡くなっている。

 テレビのニュースかドキュメンタリーで、同行の隊員がテントの中で「成田ーッ!成田ーッ!」と、叫んでいるのを見た。 この登山隊では、これより前の4月5日、ベースキャンプと第一キャンプの間の難所のアイスフォールで雪崩が発生、6人のネパール人シェルパが遭難していた。 それでも登頂は継続されたので、第一キャンプへの物資の荷揚げその他、責任感が人一倍強かった成田潔思君には過重な負担がかかったものと思われる。 5月11日、エベレストの日本人初登頂を果たした松浦輝夫隊員と植村直己隊員は、頂上に成田潔思君の遺髪と写真を埋めた。

 成田潔思君は、寡黙な良い男で、志木高校では蹴球(ラグビー)部で活躍、クラスでも成績優秀だった。 大学では山岳部に入り、キャプテンにまでなった。 Nさんによると、山岳部でも、野球部で言えば四番打者、何十年かに一度出るような逸材と、嘱望されている存在だった。 それで日本山岳会エベレスト登山隊に参加することになったのであろう。 体力気力は抜群、厳しいが優しい先輩だったという。 Nさんが1年生の時、北アルプスかどこかを登山中、増水した渓流の一本橋を渡っていて、ザイルを繋いだ仲間の1年生が転落したのを、成田君が一人で引っ張り上げた。 力の強い成田君でなければ、救えなかっただろうという話だった。 私が成田君と志木高で同じクラスだったというだけで感激し、親しみを感じてもらえた。 その後、Nさんが臨床心理士になった事情なども、聴かせてくれた。 亡き成田君のおかげである。

 「三田あるこう会」には、いろいろな出会いがある。

どろぼう橋、福沢桃介、「白河以北」2020/10/10 06:53

喜多院の庭の秋

 川越大師喜多院の仙波東照宮方面への裏口から、けっこう深い空堀を渡る。 その「どろぼう橋」というのは、その昔、江戸幕府の御朱印地である喜多院境内には、町奉行といえども立ち入れないことを知って、泥棒がこの橋を渡って逃げ込んだことに由来するという。 東照宮中院通りをずっと歩いて、産業観光館「小江戸蔵里」へ行き、昼食となった。 ここはコロナの影響で9月30日まで閉めていたそうで、今回当番のMさんたちは、さぞ、やきもきされたことだろう。

 3月の入会以来、初めて挨拶が出来ることになったので、会長の「福沢研究でも一緒」という紹介を受けて、短く川越出身の福沢桃介(ももすけ)の話をした。 桃介は、慶應4(1868)年生まれ(夏目漱石と同じ)、川越の提灯屋、岩崎紀一の二男、川越中学から明治15年慶應義塾に入り、まかない征伐や、運動会で活躍するなど目立つ塾生で、福沢の二女・房(ふさ)に見初められ婚約、福沢諭吉との養子縁組をし、アメリカに留学させてもらった後、結婚する。 木曽川水系の電源開発を外債の資金調達で行うなど実業家として成功し、その事業は松永安左エ門に引き継がれた。 だが川上貞奴と暮らしたので、福沢家や慶應では評判が悪いのだけれど、旧図書館や大講堂に多額の寄付などしている。

 食事中、私の後に入会した医学部出身のSさんが、当番のMさんと同じ白河高校卒だと聞いて、福島の入口ですよね、と言ったのまではよかったが、「原敬(たかし)も白河でしたっけ」と口走った。 即座に、原敬は岩手と、周りから否定された。 子供の頃、原敬の伝記を読み、その後、後藤新平を書いた小説を読んだ。 「白河以北一山百文」と東北がさげすまれたことから、発憤した原敬が「一山」と号したり、「河北新報」という新聞が出来たことが、頭にあったのだった。 「博覧強記」の怪しいこと、ここでも尻尾を出した。

 「三田あるこう会」「城下町川越」、歩数計は11441歩だった。