軍部とその周辺の圧力から、慶應義塾を守り抜く2021/10/17 07:23

 山内慶太さんは、塾歌の歌詞への意味を深めるためには、昭和15(1940)年という塾歌の作られた時代が、どのような時代であったかも考える必要があるという。 すでに慶應義塾は、軍部やその周辺から、西洋文明を導入した福沢諭吉の学校、自由主義の学校として、さまざまな言いがかりをつけられるようになっていたが、昭和15年頃から、どこからともなく反福沢、そして慶應義塾のリベラルな教育に対する批判の風潮が生じてきた。 富田正文がそれまで書いたものをまとめた『福澤諭吉襍攷(ざっこう)』が刊行されると、「国賊の本を出すとは何ごとだ」と三田文学出版部に満州の部隊の将校から文句の手紙が来たという。

 ペンを手にした女神を、鎧武者が白馬を降りて迎えているデザインの、図書館のステンドグラスは、封建主義の時代から新しい文明の社会を築こうとする義塾の思想を示すものだが、これについても、さまざまな言いがかりをつけられるようになっていた。 昭和15年7月12日にはマルクス・エンゲルス関係図書の閲覧禁止令が出る。 さらに、警察署員が来て禁書のリストに載っている書籍の供出を命じられたが、高橋誠一郎監督の頑張りと抵抗が功を奏して、辛くも供出を免れたという。 これら「危険図書」の目録カードは抽出除外しながらも、図書自体は旧来のままに収蔵していたので、教職員は書庫内で閲覧することが出来た。 また、思想問題の故に職を追われた他大学の教授にも、一般公開を続けて利用に供したのも義塾の図書館であった。 そのことが昭和17年頃には警察に知られ、私服刑事が図書館玄関脇の神代杉の蔭にたたずむ風景も見られたという。

 こうした慶應義塾を押し潰さんばかりのさまざまな圧力に対して、小泉信三塾長がよく抵抗し、よく耐えて、慶應義塾を守り抜いた。 富田正文は庶務主任として状況を良く知る立場にあった。 例えば、文部省の思想局が加田哲二、武村忠雄の二教授と高等部の教員船江豊二郎の処分を求めて来た時には、小泉塾長は最後まで文部省の要求を頑なに聴かなかった。 富田は後に「先生実にそういう時には強硬ですよ、『文部省の役人なんぞに、なんのかんの言われてたまるもんじゃない』てなことをよく言いました」と回想している。

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