アーティゾン美術館に初めて行く2022/04/01 06:58

アーティゾン美術館近く「さくら通り」の桜

 ブリヂストン美術館がアーティゾン美術館となって、2020年1月18日に開館していたのに、ちょうどコロナ禍に重なったのと、日時指定予約制が面倒なのもあって、なかなか行けなかった。 「はじまりから、いま。1952-2022 アーティゾン美術館の軌跡―古代美術、印象派、そして現代へ」という展覧会が、4月10日までだというので、3月29日10時からの枠を予約し、ローソンでチケットを入手して出かけた。

 ブリヂストン美術館には、いろいろ思い出がある。 今回も展示されているルオーの≪ピエロ≫と会うためだけに、何度か来たこともある。 ベルナール・ビュッフェに魅せられたのも、ここだったかと思ったが、入口に並んでいた美術館の軌跡のポスターの初期にはなく、ビュッフェ展が2000年のところにあって気づいた。 まだ京橋の、並びにあった国立近代美術館、1963(昭和38)年の「ビュッフェ展:その芸術の全貌」だったことを、「35年目にビュフェ美術館を見る」<小人閑居日記 2009.6.17.>に書いていた。 近年では、ブリヂストン美術館に関係しているゼミの仲間に案内されて、今回Section2「新地平への旅journey to a New Horizon」のメインに並んでいるザオ・ウーキー展を観たのが印象深い。 アーティゾン美術館の「アーティゾン」は、ArtとHorizonからの造語だそうだ。

 この展覧会の予約時間、10時から11時30分の間に入場すれば、あとは制限なしにずっといてもいい。 じっくり観るとすれば、何時間でもいられる内容の濃さである。 しかし、くたびれるから、おのずと適当な時間を過ごすことになる。 私はルオーの≪ピエロ≫のほか、藤島武二≪東洋振り≫≪屋島よりの遠望≫、浅井忠≪グレーの洗濯場≫、松本竣介≪運河風景≫、ルノワール≪カーニュのテラス≫≪すわるジョルジョット・シャルパンティエ嬢≫などが、好みだった。 ここの所蔵するブランクーシの彫刻≪接吻≫も好きなのだが、なぜかこの作品だけ3月27日までの展示だった。

小幡篤次郎、『学問のすゝめ』の同著者2022/04/02 07:01

 3月26日、福澤諭吉協会の第141回土曜セミナーがZOOM配信で行なわれた。 演題は「小幡篤次郎を語る」、講師は同協会理事長・慶應義塾大学名誉教授の清家篤さんと、慶應義塾福澤研究センター教授の西澤直子さん。 福澤諭吉協会と慶應義塾は、『小幡篤次郎著作集』全5巻の刊行事業を進めているが、このたびその第1巻が刊行されることになったことによる企画だ。 清家さんは同著作集の刊行委員会委員長、西澤さんは編集委員長である。

 まず、西澤さんが「小幡篤次郎の生涯」について説明し、その後、清家さんが質問をする形の対談となった。 小幡篤次郎は、今年出版150年になる福沢の『学問のすゝめ』初編に名前を並べた同著者であり、明治初期、福沢にとって智徳を広げるための同志であった。 天保13(1842)年の中津生まれ、福沢の7歳下、父は200石取の上士だが、政争によって隠居、養子が家督を継いでいたので、篤次郎は長男ながら部屋住みの次男だった。 儒学者野本白巌らに学び、藩校進脩館に入学、のちに教鞭を執った秀才だった。 野本白巌はキーパーソンで、福沢の兄三之助も学び、野本白巌の学問におけるネットワークは、福沢と小幡に大きな影響を与えた。

 福沢は、文久2(1862)年幕府の遣欧使節団の一員としてヨーロッパを視察、富国強兵の本は人材の育成だと悟って、塾の改革に着手した。 元治元(1864)年、中津で近代的学塾運営の協力者を探し、小幡篤次郎に白羽の矢を立てた。小幡は4、5歳の頃から福沢の知遇を得、写本『西洋事情』も読んでいたらしいが、父が亡くなり母しかいないからと逃げ回っていたけれど、江戸には養子の口が沢山あるという餌で説得されたという。 福沢は、小幡篤次郎、甚三郎兄弟、浜野定四郎ら6人を連れ帰った。

 英語は浜野定四郎に習いアルファベットから覚えたというが、二年で英語力の十指に入るほど上達、異例の陪臣からの採用で、慶応2(1866)年から幕府開成所英学教授手伝(弟の甚三郎も)、翌年英学教授となった。 説明がわかりやすいので、休み時間には、兄弟の前にだけ、解説を求める学生の列ができたという。

 明治初期の小幡は、福沢の授業を受けつつ、後進の指導にもあたり、まさに「半学半教」の中心人物だった。 知識層だけでなく、女性や子供も対象とした西洋の学問の紹介をしたことは、『小幡篤次郎著作集』第1巻所収の著訳書でわかるという。

 中津では、明治2(1869)年頃から洋学校設立の要望が高まる。 小幡は、福沢の提言で明治4(1871)年11月に設立された洋学校、中津市学校の初代校長になった。 小幡は中津でよく知られ、上士で、野本塾の学問ネットワークもあった。 慶應義塾と中津市学校のつながりは、学則類、教員の共通性などから、慶應義塾の最初の分校といっても過言ではない。 「中津市学校之記」は旧藩主奥平昌邁(まさゆき)の名前で出されているが、学問とは何かについて、原稿の「県庁よりのさとしの文」を「教師の著せし学問のすゝめの文」と福沢が書き直していて、福沢の文だと考えられる。 明治4(1871)年12月、『学問のすゝめ』初編の端書に中津の学校のために書いたが、ある人に広く世間に布告すべしといわれて出版したとある。 教師、小幡篤次郎の『学問のすゝめ』と宣伝していて、小幡を同著者としたのではと考えられているが、明治3(1870)年11月の「中津留別之書」からの流れで、「県庁よりのさとしの文」につらなる、『学問のすゝめ』の成り立ちにも、小幡篤次郎が関わっていたのではないか、と西澤直子さんは推量し、『小幡篤次郎著作集』によって明らかになるのではと話した。

小幡篤次郎、ネットワークで知を広げる2022/04/03 07:16

 西澤直子さんの「小幡篤次郎の生涯」つづき。 中津士族のネットワークについて、桑名豊山という人物を上げる。 800石取、旧中津藩大身衆、幕末には京都留守居家老だった。 廃藩置県後、明治4(1871)年に慶應義塾に入り洋学を学ぶ。 明治10(1877)年、J.S.ミル『宗教三論』翻訳の校閲をした。 日本文の言葉の知識など、江戸期(近世)に集積した上士階級の智徳の、新しい社会への還元で、明治社会をつくる要因になった、と西澤さんは指摘した。

 交詢社の設立、明治13(1880)年1月発会式。 同窓会のようなものをつくろうとする福沢の意を受け、小幡の設立意図は、(1)新しい「人間交際」=情報網(ネットワーク)の形成、(2)藩がなくなった後の、新たな帰属意識。 交詢雑誌→コレスポンデンス・マガジン=都鄙の情報格差の是正、小幡はこれを重要だと考え、知をどう広げるか、教科書的な本をつくった。

 貴族院議員としての小幡篤次郎。(西澤さんの「小幡篤次郎の議員活動」が、『福澤諭吉年鑑』44(平成29(2017)年)にある。) 金本位制度に最後のひとりになるまで反対。 明治民法における親子の要件、女性の離婚から再婚までの期間の問題に小幡は触れていて、いろいろなところに気配りしていた人物だとわかる。

 慶應義塾塾長時代。 一緒に学ぶ仲間(学生)の長。 明治23(1890)年の大学部、明治24(1891)年の商業夜学校の設立など、義塾の拡大に関わる。 『慶應義塾学事及会計報告』の発刊など、社中の結束(智徳の共有)を図る。

 小幡の晩年は、明治22(1889)年以降単行本として出版された著作がなく、大学部の赤字経営、朝鮮からの国費留学生問題に塾長として対応した。 明治30(1897)年8月15日の塾長辞任から明治31年4月4日副社頭就任までの空白期間は、修身要領の編纂と普及のための講演会活動。 明治38(1905)年4月16日胃癌のため亡くなる。

福沢諭吉と小幡篤次郎2022/04/04 06:57

 清家篤さんが小幡篤次郎の魅力を、西澤直子さんに質問した。 福沢と小幡は、一心同体のように評価される。 福沢と小幡は、共に学び、お互いに刺激し合う同志。 福沢の慶應義塾運営に協力する中心人物で、教育を任されていた。 入門者の応接にも当たり、ウェーランドの修身論は福沢より先に読んだ。 明治10年代の財政難からの廃塾の危機には、小幡は何としても義塾を残そうと、多事争論の場をつくって、存続発展を支えた。 小幡に対する当時の新聞などの評価はとても高く、福沢とは切っても切れない、表裏一体の関係ととらえており、(漢学による)文章や学識では小幡の方が優れているとするものまであった。

明治20(1887)年に、福沢は慶應義塾に総長を置くことを考え、大蔵省にいた小泉信吉を総長にと考えた。 福沢と小幡の二人は引退して、大店の隠居のようなものになるというのだ。 小幡は自分が福沢を継ぐものと思っており、中上川彦次郎なども、福沢にそう進言した。

 小幡は福沢の7歳下、一つ違う世代で、福沢が西洋の近代をすんなり受け入れたのにくらべ、悩みながら近代に向き合った世代だ。 小幡は、近代を実践するのに、現実を見る。 女性論でも、福沢は西洋の価値観をそのまま取り入れようと紹介したが、小幡はそれを実践しなければならない世代で、現実にどう当てはめるか悩んだ。 西澤さんは、日本の近代は成功ではないと考えていて、福沢の道がどこでずれて行ったかを考えるのが、日本の近代をみる重要な鍵だとする。(この問題は大切なので、あとで詳しくみてみたい。)

 福沢は、心に訴える文章が上手い。 小幡の文章は、知識を正確に伝えるために、一字一句正しくしようと考えるので、面白くない。

 清家さんは、福沢は天才、知の巨人で、小幡は秀才だ、と。 建学の理念として福沢の思想があるので、慶應義塾は有難い。 時事新報など福沢は忙しい、教育の維持運営には教育者、実務家が必要。 福沢なくして慶應なし、福沢だけでも慶應なし、小幡は福沢の輝きの陰に隠れて、その役回りに尽くした人。 功を誇らないのが、慶應のよいところ。

日本の近代をみる重要な鍵2022/04/05 07:01

 そこで、西澤直子さんが、日本の近代は成功ではないと考えていて、福沢の道がどこでずれて行ったかを考えるのが、日本の近代をみる重要な鍵だとする、問題である。 西澤さんは、日本の近代は最終的に侵略、国内に留まらず外に出て行くところに道を見出すしかなくなってしまった、と言う。

 西澤さんの「小幡篤次郎の議員活動」(『福澤諭吉年鑑』44(平成29(2017)年))第五章 小幡篤次郎の近代構想と貴族院に、明治4年の廃藩置県の際の、小幡の7月20日付け山口良蔵宛書簡が引用されている(『福澤諭吉全集』別巻204頁)。 「「非常之御改革」に期待を寄せ、「六百年来之封建」を解き「一朝ニ郡県」と為す「千八百年代之美談」は、静まれば外国人から「実にアジヤチックのエンゲランド」と評されることを述べており、英国の政治体制への関心が読み取れる。」

 それに続けて、「また彼は福沢同様、あるいは(トクヴィルの)Democracy of Americaを講義していたこと(須田辰次郎の回想による)を考えれば、福沢以上に会議体や議論の方法論に関心を持っていた。明治7(1874)年6月27日に発会した三田演説会では初代会頭を務め、翌年には福沢諭吉、小泉信吉とともに、The Young Debater and Chairman’s Assistantを翻訳し、『会議弁』として刊行した。さらに13年には交詢社発足に関わり、矢野文雄によれば、交詢社私擬憲法案の起草は、小幡が「無論立憲制度を布かなければならぬが、と云って欧羅巴の憲法を其まま日本に持って来ることも考へ物である、日本は日本としての国に合った政法を一つ研究するの必要がありはしないか」と言い出し、中上川彦次郎、馬場辰猪らが加わって研究討議を開始したという。(『交詢社百年史』)」

 「小幡は議会こそ官と民との接点であり、二者を結ぶ有効な機関たり得ると考えていた。ゆえに貴族院が定見もなく、単に「人民」と政府との間の「取次」しかできないのであれば、いずれ人々の信頼を失い、その存在価値はなくなる。「請願」に対する彼の意見に明らかなように、彼は、議会は行政府から独立した立場で、「人民」の権利の伸張に努めなければならないと考えていた。また一方で請願か建白かをめぐる一件から伺えるように、「人民」に対しては、主導権を握ることができる立場である必要があった。」

 司会の小室正紀さんから、平石直昭さんが、西澤さんのこの日本の近代についての問題意識への意見を求められた。 平石さんは、昨年12月に『福澤諭吉と丸山眞男―近現代日本の思想的原点』(北海道大学出版会)を上梓され、1月10日の福澤先生誕生記念会で「福沢諭吉をどう読むか―『学者安心論』の位置付けを中心に」を講演なさっていた。 1月27日のこの日記に書いたように、その本は、幕末から明治に、日本の文明化と独立保持のために奮闘した福沢、戦前から戦後の日本がひっくり返る時代に、福沢を肥やしにして、真の民主化と国民主義の変革を求めた丸山。 「脳中大騒乱」時代、知的リーダーシップを発揮して、日本の変革に賭けた二人の思想形成、知的格闘は、持続的発展の例であり、それを跡づけることで、近代と現代の日本思想史を統一的に眺めるのに資する、としていた。

 突然の振りに、平石さんは、こう話した。 明治14年の政変が大きな意味があった。 井上毅(こわし)を中心にというか、岩倉具視や伊藤博文が、福沢の構想した方向ではない方向へ走り出した。 修身要領の話が出ていたが、それと対を成すもので、教育勅語の方向だ。 独立自尊、自分の頭で考えて、NOと言える人間になるという理念、それに対し、他人の言うことに羊のように付いて行くという問題点。 両方の流れに、福沢と、アンチ福沢がどうからみあっていたかを考えながら、日本の近代を分析するのが大事だ。