アメリカに渡った森山良子の祖父、そして祖母2022/04/15 07:13

 森山良子(以下、敬称略)の父、久(1910~1990)はサンフランシスコ生まれ、日系二世のジャズメン、トランペッターだった。 曽祖父、森山國蔵は長崎で上野彦馬に写真術を学び、明治9(1896)年小倉初の写真館を開業した、今はデパートになっている場所だ。 長男の菊太郎が写真館を継ぎ、次男で良子の祖父になる三郎は、明治34(1901)年24歳の時、芸術写真家をめざしてアメリカへ渡った。 三郎は、バプテスト派の小倉キリスト教会に通っており、そこのメイナルド宣教師の縁によるらしい。 渡米前、良子の祖母となる狭間レキ(木偏に歷)と婚約していたが、単身での渡米となった。

 レキの父、狭間畏三は漢学を修め、福岡県県議を務めた地元の名士だった。 畏三の名は、森鴎外の『小倉日記』に『神代帝都考』を著した人物として登場する。 狭間家は苅田町(かんだまち)の大庄屋で、近くの高城山(たかじょうさん)が音の近い高千穂ではないかと気付き、頂上に突き立った天の逆鋒の岩を見つけ、古代王国九州説を明治32(1899)年に『神代帝都考』で発表したが、当時は異端の説とされた。 後年、松本清張が『鴎外の婢』で、「先覚者狭間畏三翁」と『神代帝都考』のことを紹介している。

 さて、サンフランシスコに渡った三郎だが、1905(明治38)年に新聞にハウスボーイの求職広告を出しているのが見つかった。 三郎の長男巌(いわお)によると、ウィガム写真館に入ってウィガムに師事した。 1906(明治39)年4月18日にサンフランシスコ大地震が起こり、ウィガムの撮影した写真が残っている、その時三郎は28歳だった。 狭間レキは、神戸女学院で2年間、英語などを学んで渡米、1907(明治40)年に三郎と結婚、サンフランシスコで新婚生活を始めた。 長男巌、次男久(良子の父)、長女和が生まれる。 三郎は1915(大正4)年に38歳で、日本町に写真館を開業した。

 巌の手記によると、父・三郎は静かで穏やか、あらゆる芸術に興味を持った人で、母・レキは外交的で教会活動に積極的な人だとある。

 当時、日本人社会は排日運動にさらされていた。 一世は市民権が得られず、土地の私有も禁止されていた。 バプテスト教会などに集まった日本人同士が助け合って生きていた。 第一次世界大戦が勃発、アメリカ社会に溶け込みたいと考えていたのだろう、41歳の三郎が徴兵に志願した1918(大正7)年4月の徴兵登録カードが残っていた。 戦場に行くことになった時、戦争は終結した。