吉村昭さん、最期の選択2022/09/01 06:57

 吉村昭さんは、『彰義隊』の連載2年目に入った2005(平成17)年に舌がんを宣告された(78歳)。 この年100歳で亡くなった丹羽文雄の日本文藝家協会葬で弔辞を読んでいる。 翌2006(平成18)年に再入院するまで、遺作の「死顔」の推敲を続けた。 佐倉順天堂の創始者、佐藤泰然の死を描き、その死を理想とするが、医学の門外漢である自分には、死が近づいているか否か判断のしようがないと、書いている。 2月、完全に取り切れていなかった舌がんと、発見されたすい臓がんの手術を受ける。 3月、退院し自宅療養。

 7月10日、最後の入院。 13日、新潮社の編集者を病院に呼んで、遺言状を手渡した。 家の金庫の中にも封筒が何通かあった、「家訓」「遺言」「節子さんへ」。 24日、退院し自宅療養。

 30日の朝、「ビール」と言い、吸呑みで一口飲むと「ああ、うまい」と言った。 しばらくして「コーヒー」と言った。 どちらも好物だが、医者から禁止されていたものだった。

 それが「最後の晩餐」になった。 夜になって、突然、点滴の管のつなぎ目をはずし、さらに首の下に挿入してあったカテーテルを引き抜き、31日2時38分に永眠。 妻にはききとれなかったが、「もう死ぬ」と言ったらしい。 何事にもけじめをつけてきた吉村だが、最後は自身の生にも自分でけじめをつけたのだった、と谷口桂子さんは『吉村昭の人生作法 仕事の流儀から最期の選択まで』に書いている。

 7月18日の日記には、「死はこんなにあっさり訪れてくるものなのか。急速に死が近づいてくるのがよくわかる」と記しているそうだ。 妻の津村節子さんは、お別れの会で、「吉村が覚悟し、自分で自分の死を決めることが出来たということは、彼にとっては良かったことではないか」と、語ったという。