父の「町工場」、短い盛衰と、その後2022/09/24 06:59

父の「町工場」のその後、戦後になって、私が物心ついてからのことは、今までもいろいろ書いてきた。 昨年11月7日の「三田あるこう会」碑文谷散策で、久しぶりに父の「町工場」があったあたりを歩き、11月24日から29日までの当日記に記した。

子供の頃、清水町(現、目黒本町2丁目)に父の工場があった。 それで昭和27(1952)年6月30日まで、東横線の「学芸大学」は「第一師範」、「都立大学」は「都立高校」という駅名だったのを、知っていた。 父の工場は、馬場アンプル製作所という名だった。 アンプルといって分かる人の年齢は幾つくらいからだろうか。 平成生まれは、知らないかな。 『広辞苑』、アンプル【ampoule(フランス)】[医]薬剤を無菌・清浄な状態で保存するための密封式のガラス容器。アンプレ(Ampulle(ドイツ))。 フランス語とは知らなかったが、ドイツ語で普及しなかったのが面白い。 お医者さんが注射をするのに、アンプルの先端部と薬剤の入った本体との間、首の細いくびれを、小さなハート形のヤスリのようなカッターでクルッと一周して傷をつけて、ポンと先端部を折る。 注射器の針をアンプル本体に差し込み、注射器のピストンを引いて、注射筒に薬液を吸い込んで、患者の腕などに注射針を刺し体内に注入する。 感染症などが問題にならない頃は、一応は煮沸して使っていたが、注射器や注射針を使い回ししていた。

 戦争直後、食糧不足から栄養失調になる人も多く、ビタミン剤がよく売れた。 注射は即効性が感じられたのか、ビタミン剤やブドウ糖の注射(陰ではヒロポンなどもあったか)が、盛んに行われ、朝鮮戦争の特需もあって、アンプルの需要が大量に増加した。 典型的な家内工業で、ガス細工による職人の手仕事だったアンプル生産を、父は、工場でテーラー・システムを導入、工程ごとの分業にした多量生産を工夫したり、最初に機械化したり、アンプルの徐冷をベルトコンベアの炉で行なったりして、おりからの需要の増加に応えることに成功した。 「多少盛んな時期があった(材料の管を小松川工場で生産)」というのは、この頃のことである。

父が近隣の「槍の笹崎」笹崎ボクシングジムや“フジヤマのトビウオ”日大水泳部を応援していたので、金子繁治、ファイティング・原田の試合や古橋広之進、橋爪四郎、浜口喜博らが神宮プールで泳ぐのを観た。

 零細企業の経営だから、子供の頃から、銀行の支店長、手形割引、信用保証協会、担保、印鑑証明などという言葉を聞いて育った。 大量のアンプル需要に応えて「盛ん」だったのだが、納入先がほとんど三共一社に集中していたことが、禍となった。 仕入れが大量になった三共が、自社でアンプルを生産することに決め、買収に乗り出したのである。 昭和29(1954)年、中学に入った頃だった、高校生の兄と二人(弟は小学校に入ったばかり)、父の前に呼ばれ、会社が大変なことになっているので、今までのように学校へやれるかわからない、そのつもりで覚悟をしてくれと言われた。 父は、目黒の工場を手放し(早い話が追い出され)、小松川で原材料のガラス管を製造していた工場だけにして、化粧壜の製造も始め、小型電球材料を商っていた部門の営業と事務を中延の自宅でやることにした。 そして、学校云々の話は、幸いなことに、そのまま続けることができたのだった。

 目黒の碑文谷清水町の工場は、昭和29(1954)年7月21日に三共の100%子会社、目黒アンプル株式会社となった。 時期もはっきりしたのは、クオリテックファーマ株式会社のホームページの沿革を見たからだ。 目黒アンプルは、医薬品の小分け包装も始めて、昭和49(1974)年に目黒化工株式会社となり、滋賀工場、静岡工場を竣工、平成10(2007)年3月ロート製薬の完全子会社となり、平成26(2014)年クオリテックファーマ株式会社に社名変更している(本社は浜松町の汐留ビルにある)。 目黒の土地は、平成10(2007)年6月に、医薬品・医療機器の物流を業とするアルフレッサ株式会社の目黒医薬品センターになったようだ。

 私は父が昭和11(1936)年に始めたアンプル製作所に始まる零細なガラス工場を兄と一緒に経営していた。 取引銀行は、かつて私が数年勤めたことのあるメインバンクと、他一行の都市銀行二行と、政府系金融機関だった。 バブル崩壊後の金融危機、貸し剥がし、貸し渋りの時期に、長く親密な関係を続けて来たメインバンクの態度が変わって、手形割引が出来ないと言ってきた。 にっちもさっちもいかなくなり、平成12(2000)年一杯で窯の火を落し、整理清算をすることにした。 工場の土地を売却し、借入金は全て返済、従業員に退職金を支払い、手に技術のある従業員は同業の工場を紹介し雇ってもらった。 従業員にはいろいろと苦労をかけた。 兄と二人、自宅を売り払って債務を返済するところまでは行かなかったから、いい時期にやめたと言われたのであった。