「英傑の子」楠木多聞丸正行2023/02/16 07:07

 そこで今村翔吾さんの『人よ、花よ、』に戻りたい。 第一章は「英傑の子」、 楠木正成の子、楠木多聞丸正行(たもんまるまさつら)は21歳、母の久子39歳と、延々と父正成の思い出話をする。 だが、今後、どうするかの決意を、なかなか言い出せない。

 多聞丸が5歳だった元徳2年秋、赤坂水分(みくまり)の楠木館に、37歳の父を、後醍醐天皇の腹心の僧、文観(もんかん)が訪ねて来た。 帝は天皇親政の頃を取り戻さんとしておられる、そのためには鎌倉を討ち滅ぼさねばならない、ただ帝には兵がない。 帝が檄を飛ばせば、名のある武士や大名が続々と馳せ参じ、さらに御家人たち以外の在地領主、野盗、海賊の類まで広げて勧誘する、いわば「悪党」による決起を企て、寺院の僧兵も加わり、燎原の火の如く広がるというのだ。

 正成は激しい危惧を抱いたが、二つ条件を出した、一つは文観の推薦によってではなく、帝が御自らお声掛け下さったことにし、もう一つは帝にお目に掛かりたい、と。 文観は、帝が最近ご覧になった夢の話をした。 庭の大きな木の下に、多くの官人が並んでいたが、最も上座が空席となっていて、一人の童子が厳かな口調で「その席に座るがよい」と命じ、宙に浮きあがり、そのまま空に吸い込まれていったという夢だ。 帝のお尋ねに、文観は吉夢だとお答えした。 その木、南向きに立っていたやもしれぬ、南向きの木、合わせると楠の一字になるというのだ。

 このやり取りを6年後、多聞丸が11歳になった建武3年の1月に、父からほかの様々な話とともに聞いた。 父は己の命がそう長くないことを悟っていたのだろう。 2月には建武から延元へと改元され、延元元年の5月、父はこの世を去ったのである。 つまり6年前の文観との話をきっかけに、父は命を落とすことになったとも言える。