尊氏が京に迫り、正成は後醍醐帝に呼ばれる ― 2023/02/26 07:59
尊氏迫るの報に、朝廷は恐慌に陥った。 北畠顕家に再上洛を促し、赤松円心の白旗城を攻めていた新田義貞に尊氏迎撃を命じた。 備中福山で激突、新田軍は二刻ももたずに崩れ、義貞は摂津まで退却した。
この頃のことだ、5月14日父正成は僅か11歳だった多聞丸を連れて上洛した。 初めて父と共に後醍醐帝に謁見した。 「これが帝か」と拍子抜けした。 母などから聞いて、神々しい帝の像を思い描いていたが、眼前の帝は己たちと変わらぬ人だった。 楠木家の屋敷に、朝議から丑の刻を回って戻った父は、蒲団に寝かされている多聞丸に、話したいことがある、と始めた。 楠木家の来歴から、主に父が帝の招聘から今に至る話、先ほどの朝議にまで言及した。 その時の状況、戦の詳細、関わりのあった人物の評、心に抱いていた夢を語った。 母が知らないことを多聞丸が知っていたのは、これが理由である。
絶体絶命の中、起死回生の策を出させるため呼ばれた先ほどの朝議で、正成は、一つだけある策を献じた。 帝に比叡山に御動座頂き、無用な抵抗はせず、足利軍に京を明け渡すというものだ。 10万超に膨張した足利軍は、兵糧不足に陥っているだろうから、京に入るなり飢餓となる。 また、乗せるとあれほど厄介な人はいない尊氏を、一呼吸空けて、気を削ぎ、勢いを止めるためだ。 だが公家の一人、坊門清忠が半年前に動座したばかりで帝の御威光を傷つけると反対し、他の公家たちも追随した。 父は沈黙を守っておられた後醍醐帝と目が合っていたという。 暫く後、帝が目を逸(そ)らされた時、父は全てを悟った。
「正成、尊氏を討て。」と、その直後、帝は仰せになった。 京に足利軍を一歩も踏み入れさせるな、新田義貞を助け、摂津国で足利尊氏を討て。 それが帝の御意思であった。 多聞丸が「真(まこと)に行かれるのですか」と訊くと、父は「すでに河内には使者を送った」と。 楠木家が動員できるのは5千、2万の新田軍は破れて1万ほどに数を減らしている。 一方、足利軍は10万を超え、まだ増え続けている。 誰がどう見ても勝敗は明白である。 何か秘策があるのだろう、「私も行きます」と言うと、「初陣を飾るか」と。 京に伴ったのも、帝に拝謁させたのも、このような次第を話したのも、全てはそのため、多聞丸は話の途中からそう感じていた。
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