護良親王の死、足利尊氏の興敗、再起2023/02/25 07:37

 新政が始まって間もない元弘3年10月12日、後醍醐帝最愛の女房禧子(きし)が崩御し、多くの皇子を産んでいた女房阿野廉子(れんし)が台頭、我が子を帝にするためには、護良親王の存在が邪魔になって、尊氏と裏で手を結んだ。 正成や赤松は、護良親王派として立場が弱くなる。 翌建武元年1月23日、廉子の産んだ皇子で一番上の恒良(つねよし)親王が立太子され、護良親王が後を継ぐことは無くなった。

 護良親王は起死回生を図るため、「尊氏に野心あり。追討の勅語を。」と、後醍醐帝に何度も懇願したが、帝はこれを受け入れることはなかった。

 すでに尊氏の弟直義(ただよし)は東国に下向し、北条残党を抑える名目で鎌倉将軍府を開いて、東国武士を掌握しつつあった。 その勢力は強大になっていた。 直義は政務に長けており、御家人たちからの信頼も頗る篤い。 執事の高師直(こうのもろなお)は類稀なる軍才を有しており、戦で連戦連勝を重ねている。 この両名を筆頭に、足利家の者たちは、「尊氏を将軍にし、鎌倉に取って代わるべし」という野心を抱いているが、尊氏だけがそれに躊躇している。

 護良親王が後醍醐帝に謀叛を企てているという噂が流れた。 このあり得ない、根も葉もない噂を、後醍醐帝が信じた。 正成が北条家の残党や紀伊、大和、摂津の親政に従わぬ武士の討伐で京を離れている間に、護良親王は捕縛され、足利直義の在る鎌倉に送られたのだ。 尊氏との関係を修復するため、我が子を売ったといっても過言ではない。

 護良親王を送ってから一年足らず、北条家の残党が関東で蜂起し、鎌倉を奪還するという事件が起こった。 この時、牢に囚われていた護良親王は殺された。 足利家は残党がやったと主張しているが、恐らくどさくさに紛れて弑(しい)したのであろう。 この報を耳にして、正成は膝から頽(くずお)れて慟哭した。 もはや、戦いは避けられない。 鎌倉にいた直義は逃れて、再奪還するため、京に留まっていた兄尊氏に援軍の要請をした。 後醍醐帝は、尊氏を関東に送れば、そのまま独立する懸念があり、他の者を送ろうとしたが、尊氏は独断で軍を発した。 それで関東の武士たちは奮い立ち、あっという間に鎌倉を再奪還した。 朝廷は尊氏に京に戻るように命じたが、尊氏は鎌倉に留まり続けた。

 この後、朝廷は尊氏の討伐を決めて新田義貞を送るも敗退、尊氏は軍勢を率いて上洛する。 足利軍は京に迫り、正成も軍勢を率いて防戦に当たる。 奥州に送っていた公家の北畠顕家が尊氏を追うようして上洛、足利軍の背後を衝き、破れた尊氏は命からがら西国に落ち延びていく。 正成は、尊氏追撃を主張したが、後醍醐帝や廷臣たちが尊氏を甘く見て北畠顕家を陸奥に返したことと、親政下で冷遇されていた赤松円心が朝廷に叛旗を翻して朝廷軍を食い止めたことで、尊氏は九州に逃れ、九州の大名衆や土豪を味方にする工作を続けた。

 勢力を盛り返した尊氏が、再び上洛を開始したのは延元元年4月初め、京で敗れてから僅か二月だった。 足利軍は二手に分かれて中国筋の陸路と、瀬戸内の海路を進み、光厳上皇の院宣を得て朝敵の汚名を払拭すると、備後国鞆に着く頃には陸海両軍10万を超えていたという。

等々力短信 第1164号は…2023/02/25 07:40

<等々力短信 第1164号 2023(令和5).2.25.>鎌倉の友達 は、2月21日にアップしました。2月21日をご覧ください。