松平春嶽、孫・康荘の教育を福沢諭吉に相談 ― 2023/08/23 08:07
福井藩主の松平春嶽(慶永)は、徳川慶喜の将軍後見職、政事総裁職を務め、幕政の指導的地位に立つとともに、一時京都守護職、朝議参与となって朝廷からも信頼を受けた幕末のキーパーソンの一人だった。 その松平春嶽と福沢諭吉の関わりについて、福澤諭吉協会の土曜セミナーで講演を聴いたことを思い出した。 2022年9月24日、熊澤恵里子東京農業大学大学院教授の「福沢諭吉と松平春嶽―大名華族の子弟教育と家の存続―」である。 熊澤教授は、『福澤手帖』184号(2020年3月)、193号(2022年6月)にも、関連の論考を執筆していた。
越前松平家は、松平慶永(春嶽)が17代目、その養子で18代目茂昭(もちあき)の子、慶應3年生れの康荘(やすたか・幼名信次郎)が、明治10年2月に慶應義塾幼稚舎に入学したことで、福沢諭吉との交流が生まれた。 家督相続人康荘の教育は、祖父慶永の主導で進められていたが、慶永は福沢に子弟教育についての意見を仰ぎ、その助言を忠実に実行したという。
和田義郎の慶應義塾幼年局に入塾した信次郎は10歳1か月、慶永は福沢門人の旧臣酒井良明を世話係に任命している。 6月には、前年生れた慶永娘、節子(ときこ)との縁談も内定し(叔姪の間柄だが、血縁はない)、信次郎の教育は越前松平家の最重要課題であった。
翌明治11年3月4日の慶永の日記(「礫川文藻」)には、小石川の松平邸に「午後三時福沢大先生来臨、余及茂昭面話ス、粕テイラ・葡萄酒・みかん・鶏卵・西洋菓子ヲ饗ス、余及茂昭ヘ西洋石版画十二枚ヲ贈ラル、五時前皈宅セラル」とある。 4月6日にも、福沢とその息子二人が、石川県権令桐山純孝、和田義郎、酒井良明等とともに、松平邸に招かれ、大層なもてなしを受けている。 時には慶永が直接慶應義塾に立ち寄り、「先生と面談」することもあった。
しかし、周囲の期待と裏腹に信次郎(康荘)は勉学を休みがちで、明治13年8月に重臣内議の結果、和田の幼年局は「学課多目ニシテ却テ御進歩之目途モ難立故」夏休みを区切りに退塾することになった。 退塾後の、康荘の教育は、混迷を極めた。 康荘の教育を巡る慶永と父親茂昭との確執もあった。 康荘は、重臣宅に寄寓しながら漢学、算術、習書の各塾に通った。 だが、それも上手くいかず、明治14年2月、慶永は康荘専用の学問所「審慎学舎」と教員住居を建設する。 教員には福井から旧臣笹川章門が採用され上京した。
この決断も、福沢の助言によるものと考えられるそうだ。 康荘の教育に関する福沢諭吉への聞取書が「越葵文庫」に残されている。 福沢は自身の息子達の教育にも触れながら、穏やかで具体的な解決策を示している。 12、3歳まではまず身体の教育、次に智心の教育が重要だ。 息子達には器械体操、馬術、水泳、また小臼で米をつかせるなど、もっぱら身体を鍛え活発になるように気を付けている、と。 康荘をすぐには塾に入れずに、親身に面倒を見てくれる旧臣宅に預け、家人同様の教育を施すことを勧めた。 日頃から運動をよくし、誠実な教師による宅稽古で漢学洋学を学び、その後塾を選んで通学させればよい。 また旧臣に委託する際には、「御殿風」は一切廃止し、世間一般の「子供風」にすることが肝要であるとした。
最近のコメント