康荘の欧州留学、兵学から農学へ目的変更2023/08/24 07:07

 松平康荘(やすたか)は、明治16年6月に学習院に入学した。 しかし、翌年1月には一転して陸軍兵学修行のためのドイツ行きを決定し、父茂昭が6か年の洋行願を華族局に提出した。 海外留学が浮上した背景には、大山巌陸軍卿の欧州行があった。 康荘の送別会には東京在住の旧藩関係者百名余が集まり、慶永を中心とした旧臣の結束力が依然として高いものだったことが判る。

 康荘の留学には重臣子弟三名(橋本春、岩佐新、天方通義)が同行修行した。 しかし、康荘は陸軍兵学修行を断念し、イギリス王立農学校での農学修行に、留学目的を変更することになる。 このことについては、慶應義塾卒業生渡辺洪基を介し、福沢が助言したか、という。 この松平家家督相続人の留学目的変更には、旧家臣たちが憤慨した。 福井出身の在パリ公使館付海軍大佐で康荘の後見人、八田裕次郎も、単に農学を勧めたわけでなく、まずケンブリッジ大学なりとも入学し、貴族の貴族たる教育を受けるようにと勧めた。 慶永は、覚書に、康荘は大学校に入り大学者にならなくとも、心得違いなく、松平家を保護すれば幸福このほか無しと書いている。 慶永にとっての一番の幸福は「家の保護」であった。

 これはアメリカ留学中の長男一太郎が、学問の方向について迷ったのに対し、「何科にても、一人前の男と為りて自活の道を得れば夫れにて沢山なり」、「拙者の所望は唯貴様生涯の幸福に在るのみ」と書き送った「幸福」とは対照的である。

 このことで八田裕次郎は後見人を固辞し、慶永は農学校入学に合わせて、第一高等中学校教諭松本源太郎を学事監督として派遣する。 松本源太郎は、旧福井藩家老本多家の重臣松本晩翠の長男で、当時30歳、学術修行のため3年の予定で渡英した。 オックスフォード大学近辺に居住し、哲学や宗教等を聴講、同大での勉学と人的交流を深め、帰国後、第一高等学校教授。

 慶永が家の存続を強く望む一方で、旧態依然とした「御殿風」手法は次第に求心力を失っていった。 康荘は、明治22年5月、英国サイレンセスター王立農学校へ入学した。 翌明治23年4月28日付、慶永宛書簡で、「昨夏農学校ニ入学仕り候より此ニ始メテ生涯の目的も自立、尓来都合も宜敷、今日迄勇テ勉強罷在り候事ニ御座候」と書き送った。 慶永の下では混迷を深めた康荘も、長期にわたる留学の中で、自ら学ぶ目的を見い出し、ようやく自立の道に辿りついた。 同年6月2日慶永死去、7月25日茂昭死去、康荘は一旦帰国後、英国に再留学した。

 明治26年5月、福井城址に松平試農場を創設した。 これも渡辺洪基を介し、福沢が助言したか、という。 松平試農場Experimental Stationは、その後の華族農場のモデルとなった。